2. エスカレーターに乗り遅れる。

 K駅のプラットホームは狭い。2路線、5つのホームがひしめいており、階段の横を通るときなど、斜めに押されて線路に落ちないようにするのが困難なほどに狭い。ところで知らなかったのだが、駅は「ホーム」ではなく「フォーム」なのだそうだ。エレベーターの行き先ボタンが「PF」となっているのを発見したのだ。Platformということだとすると、formという略称は英語的にどうなのだろう。「駅のホーム」は「駅の形」という意味になる。

朝夕のラッシュ時ともなると、電車が入ってくるたびにK駅のホームは大変な混雑の様相を呈する。特に上りエスカレーターしか設置されていないところには人が殺到し、エスカレーター待ちの行列となる。しかし、不思議なことに混乱はほとんどない。三浦しをんの小説『舟を編む』に「混雑した駅にあっても、エスカレーターに大量の人が整然と吸い込まれていく様相を眺めるのが好きだ」という記述があったが、毎日、毎時、見事なまでにタピオカのごとく吸い込まれてゆく。

混乱のないエスカレーターなど無い、というと完全に嘘になる。千葉に西船橋という駅が有る。JRの他線乗り換えと、地下鉄東西線の併設された交通の要所にもかかわらず、JRは頑なに快速を止めない禁じられた地である。この西船橋という駅は、朝晩とてつもなく混雑するうえ、地下鉄線のエスカレーターは1段に1人しか乗れないのだ。私も短期間利用していたが、特に朝は結構な頻度でエスカレーター乗り場で怒号が飛び交うのである。怒鳴りたくなる気持ちはわからなくはない。ひどいときには、エスカレーターに乗り込むまで5分待ちなんてことになるのだ。恋人に「今西船。乗り換えてあと5分で船橋だから、フェイスの通路のところで待ってて」なんて電話をかけても、5分後はまだエスカレーターに乗れないのだ。ディズニーランドの「イッツ・ア・スモールワールド」くらいは待たなければならない。その待ち時間の間に、恋人に愛想を尽かされて破綻する、などということも過去には有ったであろう。俗に言う、西船破綻である。

よく考えてみれば「電車が遅れたので遅刻します」「雪でバスが走らないので遅刻します」は許されるのだから、「混雑でエスカレーターに乗れず、乗り換えができないので遅刻します」という言い訳も許されるのではないか。西船橋であれば、「階段に乗り遅れて遅刻」も許されるであろう。私が上司なら許す。

K駅に到着した各駅停車から、ドア脇のサラリーマンのかたまりに絞り出されてホームへ降りた私は、エスカレーター待ちの混雑に並んでいた。何やら周囲がざわついている。エスカレーターが止まっているのだ。何らかの理由で、停止ボタンが押されたようである。エスカレーターが急に止まったときの人々の反応は面白い。ほとんどの人は、止まったことが信じられないという顔をして、その場に立ち止まってしまい、しばらく動かない。「エスカレーターが止まったので遅刻します」というのはどうだろうか?なかなか素敵ないいわけではないか。「ので」が必要な割にやぽったいが、小説のタイトルにもなりそうである。

ようやく状況が把握でき、人が流れ始めた。止まっているエスカレーターを歩く時、普通の階段よりも足の重くなるような感覚は、これまた面白い。体重が2倍になったようだ。体重が2倍になるのは、太陽系外に有る惑星「K2-18b」というところだそうである。重力が2倍だと、毎日筋トレになるだろう。痩せるのではないか。ハインラインの『月は無慈悲な夜の女王』では、重力が1/6の月から、月人が地球に来てぶっ倒れてしまう話だったが、2倍位なら大丈夫なのかもしれない。

そうこうしているうちにエスカレーターを抜けた。動いているときよりもみんな早いような気がする。なにげにエスカレーターに乗っているときよりも、顔が生き生きしている。人々は歩くことを欲しているのではないか。だったら最初から、階段を使えばいいじゃないか。