81. 凧。

 元来、球技が苦手だった。小さい頃、まずつまづいたのがドッヂボールであった。自分の方に飛んでくるボールが怖くて逃げまどい、兄と父からの熱血指導で正面から来たボールを胸で受け止めるところまではできたが、腕がワンテンポ遅れて、一瞬目を閉じた瞬間にボールはどこかに飛び去っていた。野球もグローブでボールが受けられるまでに相当の訓練時間を要した。ただ、打つのは好きだった。

小学校の体育でやった、バスケットボールは少しだけできたが、バレーボール、卓球、テニスでは、レシーブ以外はてんでだめだった。

例えばテニスであれば、相手が球を「パン」と打ち、ワンバウンド「ポン」とした後に、自分が「パン」と打ち、バウンドが「ポン」。「パン、ポン、パン、ポン、パン、ポン、パン、ポン」の8ビートの4分音符のバスドラムとスネアドラムのリズムで続いている間が好きなのであって「パン、パン」とリズムを乱すバスドラム2連のスマッシュが来たら、もうタイミングが合わなくなってしまう。テニスやバレーをやっている人にとっては、リズムを乱すサーブとスマッシュこそ華なのであろう。しかし、我々にとっては、華などいらぬ、葉と茎の緑を楽しむのだ。

それでも、小学校の頃の放課後の遊びにおける華とは、軟式野球かソフトボールであった。小学校のグラウンドには4つの角があり、角の部分にバッターボックスを作って、対角線方向に野球のグラウンドを作っていた。

それぞれの4つ角は、まずコンクリートと金属フェンスのバックネットが有るところが特等席。ジャングルジムは二等席。入り口付近のプール脇は、人が入ってくるたびにプレイを止めなければならないので三等席。そして、ウンテイやブランコ近くは低学年が遊ぶので、避けたい末席であった。ところで、特等席は奪い合いになりそうなものであるが、実はそれほどでもなかったのである。というのも、我々が小学校時代においても、それほど野球ばかりしていたわけではなかった。

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私は、小学校時代、いや、それ以前からも、一人遊びが好きだった。今のようにゲームはなかったが、道幅1mmほどの迷路をノートのページ1ページに渡って描いてみたり、釣りのルアーに付いている三つ又の針を、伸ばしたゼムクリップで再現してみたり、電卓でひたすら変な数字が出るまで関数ボタンを押しまくったり、そういう家での一人遊びをやっていた。外では、甲虫を中心とした虫取りから始まり、ティッシュを水で濡らして壁にぶつける、画鋲を紙で包んで作ったダーツ、ラジコン、エアガン、ゴムのおもりを使った釣りのキャスティング練習…なぜか "飛ぶもの" を作ったり使ったりすることが多かった。

その中で、家での工作と飛ぶものを組み合わせた、凧あげは、6年間で6~7回はブームが来たうえ、友人にも波及させた、当時の趣味のようなものであったと言える。

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まず、兄の買ってもらった『ゲイラカイト』があった。三角形の白いマストに、黄色で血走った目玉が2つ描かれており、昔の人にはプロレスのマスク悪役、今の人にはカラス除けにしか見えないデザインの、アメリカからやってきた、誰でも揚げられるハイテク凧であった。それまでの十字の竹ひごで作った、西洋盾型の凧とは違い、くるくる回らずに、風さえあれば、どこまでもあがっていった。

そう、飛ばないと意味はないし、最初から揚がったことで、私の記憶に強烈に印象付けられたのである。なお、ゲイラカイトの肝は、胸びれに有るのだ。また、背の横棒を外すと、簡単に小さくたためる機構も格好良かった。

小学校3年の冬、ゲイラカイトが羨ましくて仕方がなくなり、ビニールのゴミ袋と竹ひご、セロテープで同サイズ品を作ったが、竹ひごがしなりすぎてうまくあがることはなかった。

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小学校4年の冬、親が誰から聞いてきたものか、"誰でもよく揚がる新型凧" というものの設計図を持ち帰ってきた。これは非常に革新的で、縦棒が2本しか骨は無く、横長六角形のパラシュートのような形をしていた。縦横比の3:2、ヒレを含めて3:4という長さが重要らしく、骨はゲイラカイトの横棒のような丸棒を使用する。回らぬよう安定させるために、初心者は足を付ける。足なんて飾りなんかじゃないとはじめて知ったのだ。

早速兄とその新型凧の試作品を作り、次の週末に試しすことにした。冬に凧を揚げるのは、比較的風が強いからであり、正月とは無関係である。ゲイラカイトでは最初に誰かに上に向くようかざしてもらわないと揚がらないが、新型凧は強い風に手元で乗っているのでその必要もなく、リリースする魚のごとく、中学校の校庭を当然のようにスルスルとに揚がっていく。

数分後、手元のタコ糸は無くなり、軸だけになってしまった。糸巻きには、もともと何m巻かれていたのかわからない。横幅40cmほどの新型凧は、もう点にしか見えない。糸が糸そのものの重みでたるんでいるので、少し巻くが、全く高度が落ちる気配はない。

近所の子供が眺めに来るも、あまりにあがりすぎているのでよくわからなくなっている。手に伝わる凧自体が小刻みに8の字を描いている、風の振動は、指2本で糸を挟んでいる左手に伝わる。ビニールが風を切り、凧が動いている振動を感じる、これが凧揚げの快感でも有る。

下ろすときも、有る程度の風がないと、高度が下がって来た途中で落ちてしまい、凧が壊れないように巻きながら回収する必要が有るだけでなく、隣の家の敷地に落ちてしまって困ることが有る。さすがに電線に引っかかるようなヘマはしない。

この3:4の新型凧レシピは、完全に記憶し、学校で紹介することで、着実に友人らに伝播していった。いつのまにか、校庭で凧揚げをするメンバーの、半数以上は新型凧になっていった。

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親から聞いた新型凧以降、新しいレシピは伝わることがなかった。新型凧は作成も廃棄も簡単であるので、秋から冬にかけて、卒業するまでの間、何度も作られ、揚げられ、捨てられていった。2本だけの丸棒と、タコ糸の糸巻きだけが残った。

しかし不思議なことに、中学に上がると、はたと凧揚げはしなくなるのである。近所の中学に通っていなかったというのもあるが、その近所の中学で、毎週兄や父のテニスのラリーに付き合わされていたのだから、場所は有ったのだ。

中学以来、それまで好きだった、エアガンだの竹とんぼだのという、飛ぶおもちゃもほとんど手にすることが無くなった。ホワイトウイングスという、プロ志向の紙飛行機ブームが、一瞬来たくらいである。ゴムを巻いて飛ばす飛行機、パチンコのようなゴムの動力で跳ね飛ばす発泡スチロール飛行機など、やりたいと思わなかったことはないが、やらなくなってしまった。

そして今、買い物のたびに校庭横を通る小学校で、土日に凧揚げをしている家族は、非常に稀である。そして、せいぜい10mほどしか揚がっておらず、みるみるうちに落ちてしまう。凧も市販の三角または四角のものだ。

子供も大きくなってきたし、誰でもあげられる3:4凧を作ってみようかと、時折思わなくもない。しかし、揚げること自体の楽しさを全く思い出せなくなってしまっているのは、どうしたものであろうか。