112. 赤いカラス。

 それは2月の終わりの朝だった。乗換駅であるO駅東口で昼食を買うためコンビニに向かっている最中、右斜め上から声を掛けられた。

「かー」

それはそれは、見事なひらがな「か」の発音であった。カラスである。おそらくハシブトガラスと思われるカラスが、バス停のひさしの上から通行人を馬鹿にして鳴いているのである。しかしその直後、私は目を疑った。カラスが赤いのだ。朝日を背後から浴びていたのもあるが、黒いはずの羽毛全体がぼんやりと赤く、特に胸のあたりが赤く光っていた。よし、写真を撮ってやろうとポケットに手を伸ばしたせつな、赤いカラスは頭を下げ、私の頭上を滑空して飛び去ってしまった。

それから毎日、赤いカラスの写真を撮ってやろうと、毎朝O駅に降りるたびにスマートフォンをカメラモードにしていくのであるが、赤いカラスに出会うことはあまりないことに気がついた。せいぜい週に2回なのである。他のカラスはとみていくと、なかなかにそれぞれ個性があることに気がついてきた。

まず鳴き声が違う。「あー」であったり「ガー」であったり「グオ」であったりと、鳴き方にそれぞれ個性があるのだ。「ガー」とガラガラ声で体が一回り他より大きなカラスは、いつも電柱や街頭の上にいる。「アー」や「カー」と澄んだ尖った鳴き声は子供だろうか、道路に捨てられたマクドナルドのポテトの赤い入れ物を巡って遊んでいるのか、争っているのか、軽いけんかをしている。短く「ア」と鳴くカラスは、人をびっくりさせるのが面白いらしく、アーケードの商店街の中、通行人の頭上1mほどのところを高速で低空飛行し、店の脇を抜けて屋根に止まって誇らしげに鳴く。

また、集団としては、ゴミの収集が来ると収集車の周辺に集まるのだが、収集もプロなので、ほとんど何も残さずに回収してしまう。しかし車が発車するまでは皆で眺めるのである。全く見返りがないのにつきまとうのは、人間を脅してゴミを奪い取ろうとしているのだろうか。いつも最後はヤクザの親分を送り出すかのように、皆で収集車の方向に向くのが面白い。

そういうカラスを、カラスのコントロール個体、いや撮影の練習に何枚か撮っているうちに、また新たなことに気がついた。日本に限った話ではあるが、2000年くらいのガラケー時代に、携帯電話による盗撮が国会で話題になったことがある。国会とは近所の迷惑噂話を議論するものであったかと、はなはだ呆れを通り越してしまうのであるが、それは本題ではない。つまりは、撮影時に結構な音で「ピロリン」という音がするのだ。型落ちのグローバル機であるNexus5でそれだし、メインに使っているシャープのSH-01Kは「カシャ」と鳴る。さすがに「カシャ」は、朝の駅前でも不審者とみられる可能性があるため、シャッター音を「ピロリン」に変えてあるのだ。

一方で、カラスは耳が良い。誰かがビニール袋をカサと鳴らすと、一斉にそちらを向くほどの耳である。そんなカラスに、スマートフォンのシャッター音は、どうやら不快らしい。これまでに数羽のカラスを至近距離から撮影した結果、スマートフォンを向けるだけで顔を背け、逃げるようになってしまった。新しいカラスの撃退法として、特許が取れるのではないかというほどの効果がある。

そして、カメラを構えていない、急いでいるときに限って、バス停のひさしの上からこちらに向かって「かー」と楽しげに声を掛けてくるのだ。

*

そうこうしているうちに、3月も終わろうとしていた。私はというと、科研費に2年連続で落選し、各種委員会の年度末書類に追われ、身も心もボロボロ。せめて赤いカラスと一瞬でも良いから意思の疎通が図れないかとふと考えた週末、本気で写真を撮ってやろうと思い立った。

いつもは、スマホで撮ろうとするから、不審者に見られるのである。だったら本気の一眼レフを用意してやろう。その昔、仕事で無理やり買わされた、ニコンのD60一眼レフに、55-200mmの望遠レンズをつける。ダブルズームキットについてきた、F値はさほど明るくないものではあるが、F5.6で、ISO800もあれば、明るい朝の屋外なら楽勝だろう。このレンズは子供の運動会と発表会専用のレンズで、なかなか重宝するのだ。近距離用に、交換レンズを持ち歩くというのはスマートでないため、こちらはカシオのエクシリムコンパクトデジカメを使う。35mmフィルム換算28mmからの広角レンズで、ズームをかければ80mm程度までいける。しかし、ズームをしている最中に鳥は逃げてしまうかもしれないが。

朝の5時半過ぎに起床し、適当にパンを焼いてインスタントコーヒーに牛乳を入れる、一人キッチンの隅で朝食を済ませ、寝ている妻と子供を置いて、私はそっと家を出た。朝の6時半、いつもの通勤よりも2本ほど遅い電車には、土曜とはいえそこそこの人が乗っていた。荷物を減らすため、カメラを首から下げてこようかと思ったが、念のためにカバンに入れておいてよかった。

いざO駅、勝負である。天候は快晴。少し暗い雲があったら、スケッチ用に写真を撮ってやろうと考えていたのに、朝焼けの上は見事に真っ青な空だ。3月の清々しい、いや、まだかなり肌寒い風がユニクロのライトダウンジャケットを突き刺す。動きやすさよりも、暖かさを重視すべきであった。

カラスはというと、いつも通りのマクドナルドの空き容器でラグビーをし、ピンクのゴミ収集車を追いかけては「オレのゴミ袋だ」と騒いでいる。信号機や街灯の上、バス停の上にいる個体を200mmのレンズで次々に撮影するが、どれも朝日で白く光るだけで、赤いカラスは見つからない。

私はふと、ゴミ収集車の作業員に声をかけてみることにした。

「すいません、このへんで赤いカラスって、見ませんでした?」
「ああ?カラスって、黒いのしかいないだろ?」
「そうではなくて、黒いんだけど全体がぼやっと赤いんですよ」
「いやー、そんなのいるか?なあ?」
「うーん、作業中はカラスなんか邪魔だなってだけで、よく見たことないよ」
「あ、ありがとうございました」
「はーい」

ピンクのゴミ収集車が走り出すと、私と街灯や看板の上に止まった4羽のカラスが見送った。こいつらではない。

こうなったら、あちこちで聞いて回ろうと考え、私は駅の周辺に戻った。開店の早そうなおにぎり屋のおばちゃんに声をかける。

「すいません、鳥の写真を撮っているもんなんですが、この辺で赤っぽいカラスって見たことないです?」
「赤い…?」
「カラスは黒いだろ?なあ?」
店の奥から、男性の声がした。

「まあそうよね、どのへんが赤いわけ?」
「えーと、まあ黒いんですけど、光が当たると首の下あたりがぼやっと赤くて、体の周りも赤いんですよ。普通は光によって緑や紫に見える部分」
「うーん、他には特徴無いの?」
「そうですねー、すごく澄んだ声で『かー』って人間の子供みたいな声を出します」
「おばちゃん、あれじゃねえ?」
「あー、カーコ。なんかね、愛嬌ある子いるのよね。たまに売れ残りの鶏皮あげたりしてる」

おばさんたちは何かを思い出した。

「そうそう、カーコって、ちょっと赤いよねえ、ヒライくん?」
「えー、赤いすか?黒いでしょ。カラスだし」
「そんなことないわよ。言われてみれば、胸のところ赤いかなあ」
「おばちゃん、うちのひさし、赤いから、分かんないすよ」
「ああ、そうかもしれない」

「1年くらい前からね、カーコっていうお行儀のいいカラスがいるのよね。子供の声みたいな声で鳴くの。それがいたずらもしないで、店の前でずっと待ってて」
「その、カーコっていついます?」
「火曜と木曜。それ以外の日は来ないよねえ、ヒライくん」
「そっすね」
「火曜と木曜って、なにかあるんです?」
「うーん、なんだろうねー?」
「きっとあれっすよ、周りの地域のゴミ収集がない日」
「ああ、そうね、火曜と木曜は、この辺カラスが多いの」
「へえ、じゃあ今日は無理ですね」
「でもねえ、ここんとこ来ないわよ。ねえ、ヒライくん」
「いちいち呼ばないでくださいよ。カーコ?ここ3週間位見てないかな」「あ、そうなんですか。なるほど、ありがとうございました」

なるほど、カーコというのか。

私はそれから1時間ほどO駅東口周辺をうろついたが、赤いカラス、おそらくカーコを見つけることはできなかった。午前9時をすぎると、O駅の東口周辺にはあまりカラスがいなくなっていることに気がついた。いつものガラガラ声のボスが通行人を眺めている以外、ほとんどのカラスはどこかに移動していた。

私は駅を抜け西口側に出た。ようやく日差しが現れてきた中、数羽のカラスが、二階通路に突き抜けている街路樹の周辺で、ゴミを転がしては奪い合っている。そのうちの2羽は、朝方東口でもやんちゃし放題の兄弟にも見える。「アー」「カー」という鳴き声はおそらくそうだろう。こんな子供でも、時間帯によって移動することで、生き延びてこれているのだなと感じる。

ふと自分が、いっぱしのカラス研究者になったような気がして、少しおもしろくなった。そして2羽の兄弟ガラスが、モンスターエナジーの缶でサッカーをしているところを写真に撮り、O駅を後にした。

(フィクションです)