108. 学会に居場所がない。

 秋は学会シーズンである。関東で大きい学会というと、なぜか横浜でしか開かれないため、5時に起きて電車で片道2時間かけて通う。ここ数年、経理がうるさくなってきて、「学会は年に2回、140km以内は宿泊不可」という制限を出しているため、年に3つ出席する学会の1つは自腹だ。なお、すべての学会の年会費は自腹である。学会の方も、学生を呼び込むために学生会員は格安か無料となっており、一般会員にはしわ寄せがあつまって年々高額化している。

2時間の電車は、読書のチャンスである。何しろ、いつもより2倍強も読めるのだ。ブックオフで100円どころか毎月2枚配られる100円クーポンを使って、消費税分10円だけで1冊買えてしまうため、積読がひどいことになってきた。この無茶苦茶なクーポンシステムも、近いうちに300円か500円以上でしか使えないように改悪されるのだろう。

そんな学会も最終日の3日目。前日夜の通り雨が玄関先の多肉植物の上で水の玉を作っている。仕事では大腸菌と細胞とネズミしか見ていないため、植物や昆虫はよくわからないのだが、多肉植物はカロリーが高そうな気がするのに、なぜ虫は全く食べないのか昔からの謎だ。検証のために一度は自分で食べてみるしかあるまい。

2日目の朝一番で発表を済ませたため、その後から他人の発表を聞いていても眠くて仕方がないが、電車の中での読書時間は意地でも寝ない。3日目は3冊目、伊坂幸太郎を読み始めた。伊坂幸太郎の作品は文章の密度が濃く、岩山を歩くような慎重感を持って読まなければならない。逆に、密度が高すぎるために何か別のことを平行に考えるということができなくなる。昨年のこの学会の時に、吉田修一の作品を読んで、ちょいBLのストーリー30回くらいを思いついたのに、あれから結局序盤しか書いていない。なんかこう、創作意欲をもりもり沸き立たせられる、隙間のある作品に出会わないものかと思って、はや1年だ。

学会の方は、大きい学会だから仕方がないのかも知れないが「ナントカ学術賞記念講演」というものばかりになってきた。上は長年教授を努めてきたオエライさんたちの昔話、下はそういう大手研究室に在籍する若手研究者に英語を喋らせる訓練をするだけのトレーニング。我々のような弱小研究室の、さらに泡沫下っ端には縁のない世界である。ピンキリでいうと、ピンの世界と、我々はキリの世界である。でもまあ、ピンの世界の受賞している若手も、月に手取りはせいぜい30万円ボーナスなしというところだろう。家もまともに買えない給料で、世界には通用しないが日本でちやほやもてはやしてその気にさせるという、毒のあるイモガイならぬ「ヤリガイ」というやつなのだろう。

しかしここ数年、コロナが原因というわけでもなく、学会のつまらなさはひどい。理由は分からないがあっちもこっちも「Aという薬に効果がある」「Bに効果がある」「Aの効果をRNA-seqで」「Bの効果をシングルセルで」と、本質と違うところで盛り上がっているだけに感じる。自動車の製造で言ったら、「屋根の上に羽をつけてみたら早くなった」「早くなったことをレースコースで確認しました」みたいなもので、根本的なエンジンなどのメカニズムに手を出そうという人がいなくなった。

午前10時。本来なら学会が最も盛り上がる時間に10あまりの会場で何一つ興味を引く発表がないため、1階ロビーでのポスター発表会場を覗くことにした。ポスターとは、畳1枚くらいの紙に、研究内容をベタベタと貼り付けて掲示する発表形式である。ポスターの良さは、タイトルと結論が最初から見えること、そして、本来は、その研究を行っている研究者と、学会開催中ならいつでも意見交換ができることである。しかしこの10年ほど、ポスターも写真に撮られることを嫌って、指定発表時間の10分間だけ掲示し、終わった瞬間に回収するという研究者も増えた。ポスター発表自体、紙の無駄でもあるので、電子化などで対応できないかとはいつも思う。

ポスター会場には、企業の展示ブースも存在している。事前リサーチ不足の自動車メーカーや、”投資用”マンション販売、ふるさと納税を促す自治体も展示している。残念ながら、研究者はそんなに給料をもらっていないんだよな。ふるさと納税も紙の資料なんかいらない。

「あ、先生!ひさしぶりです!」

急に声をかけられたら、とある自作機器を販売しているD社の社長兼営業兼技術のDさんだ。D社は株式会社ではあるものの、実質町工場で一人、専門機器をワンオフで作ってはけっこうな値段で売りに来るため、10年ちかく前に、弊社研究所には出入り禁止になった。

「最近ぜんぜん買ってくれないじゃないですかーひどいですよー先生」
「あ、あれはね、経理の方から『D社さんのは高いから買っちゃダメ』っていわれてて」
「ええー、これ見てくださいよ。すごい回るでしょ。T大なんかから引っ張りだこ!どう?」
「いくらなの?」
「えー…ひどいなあ、値段聞きますー?」
「そりゃね、経理次第なんだから。10万円超えると消耗品じゃなくなるから、稟議決済選定会議よ」
「うーん、また買ってくださいよー。ウチなんか小さい会社なんだから、もうやめようかと思ってんですよー」
「まあね」

ある意味、調子のいいおっさんだ。T大の研も、ハッタリだろうとは思う。ただ、この学会に出せるだけの力はあるのだから、実際に何台かは売れているのだろう。機械のメンテナンス料と、部品や試薬の卸しもやっているから、まあまあ生活はできているようだ。ああいう会社が畳んでしまうと、いわゆる「世界標準」の物しか手に入らなくなり、研究の多様性が失われるのも事実で、いかんともしがたい。

そんなおり、急に声をかけてきた男がいた。

「よ」

大学院時代の同級生のYだ。同じ業界で研究を続けている、数少ない同業者だ。私はふと学会プログラムを思い出した。

「こんなところで何やってんの?M先生、今頃発表してんじゃないの?」
「いいのいいの。どうせ例の化合物の話だろ。飽きたよ」
「ああ、まあそうか」

「「…しかし」」

二人して同時に言いかけて目を見合わす。先に口火を切ったのはYだ。
「つまんねえよなあ、この学会」
「ああ…」

同じような立場にあると、同じように何かを感じるようだ。

「なんかさ、あの病気に効きます、この癌に効きます、ばっかりじゃん」
「そうよな。違う癌だと違います、みたいな」
「そうそう。そんなの医者がやってりゃいいじゃん。俺ら関係ねえもん」
Yも全く同じような不満を感じているようだ。

「でもさ、部屋(※研究室のこと)戻っても、製品化できるもの、薬になるもの、ばっかりだしさ」
「え?大学もそうなの?」
「そりゃそうよ。特許につながる何かを見つけないと、研究費の配分(※運営費のこと)減らされんだもん。Mさんに言わせりゃ、『もうメカニズムを探す時代は終わった』だとよ」
「ひどいな、あのM先生にそこまで言わせるのか」
「武井んとこはどうなんだ?須賀さん、退官しないの?」

話の矛先が私の方に向いた。

「さあ…それは聞かないことにしてる。年齢的にはもう退官してもいいけど、まだ元気だし」
「で、好きなことはさせてもらえんの?」
「実質はそうかな。でも年に2回の実績評価でめちゃくちゃ言われるな。去年一人辞めた」
「武井はそういうの、強そうだからな」
「強くないよ。嵐がすぎるのを待ってるだけ」
「でも須賀さん、助けてくれんだろ?」
「ないなー。絶対ない。まあでも、人事は別の部署だから」
「それやそれ、それが強いっちゅーねん」
Yはエセ関西弁で煽ってくる。

「しかしさー、何だろこの疎外感」
「な。どこのセッション言っても、『なんかわからないけど効きました』なのな。興味持てない」
私も先程の話を蒸し返してみた。

「なあ、我々の基礎研究はどうでもいいって感じするよな」
「そういう人は分生いくんだろうな」

分生というのは、分子生物学会という基礎研究の巨大学会である。

「分生な。ウチも学生はこっちじゃなくて分生行かせてるな。あっちはあっちでデカすぎて入り込みにくいけど、学生一人でも出られるし」
「いいよな、分生。いつも班会議時期だから出られないんだが、次どこ?」
「幕張。近い近い」
「近い…か?」

学会の2日目には、ノーベル賞受賞者がビデオ講演を行い「基礎研究こそが力になる」と力説していたそうだが、結局その人もノーベル賞の理由は、最終的に全く新しい治療薬を開発した業績をたたえてである。最前列で聞いていた各大学の施設長や、ゲストで聞きに来ていた官僚たちへは、受賞者が何十年かけて行った研究部分の話などは全く響かず、某先生の作った数々の抗体医薬の数だけしかおぼえていないだろう。

「でさ」

Yが続ける。

「うち、ネズミいっぱいいるじゃん。あれ、リストを作るから、使えるのあったら譲るから」

ネズミとは、遺伝子改変マウスのことで、ある遺伝子が無くなったマウスや、ヒトや蛍光色素を持ったマウスだ。M先生は我々が大学院生だった2000年前後に遺伝子改変マウスを作りまくり、Natureなどの超一流雑誌に論文を載せまくっていた。

「ええ?なんで?もったいなくない?」
「いやな、今、実は、准教一人、助教はおれともう一人、ポスドク2人に学生が2人で、手におえないんだわ」
「え、あのM先生のところに、えーと、8人しかいないの?」

M研というと、最盛期には20人ほどのスタッフやポスドクがいた。学生も常に10人くらいはいたはずだ。

「そう。Mさん、もうあと2年で退官だしさ、どんどん縮小してる。縮小しなくても、学生はもう来ないし」
「そうか、そうなんだ…」
「だからさ、これまでのマウスをできるだけ配って、新しいことを見つけてもらうほうが、ベネフィットあるかなと思って」
「なるほどなあ…」
「じゃあな、他にも知り合いいたら紹介しといてくれ。おれもしばらく受精卵をバンクに預けるために用意してて、ぜんぜん実験してないし、暇ならメールくれ」
「ああ、わかった。じゃあ」

「分生、ね…」

もう10年以上行っていないが、久しぶりに覗いてみようかという気分になった。問題は、事務が参加費と出張費用を出してくれるかどうかである。