44. 遅読老婆。

 新型肺炎騒ぎになる前の話だ。

毎日同じ時間の電車で出勤していると、だいたい同じメンバーになる。特に早朝は顕著で、始発でつくばに通っていたときは、1ヶ月を過ぎたあたりで、同じ車両に乗っているメンバーが、毎日同じであることに気がついたものである。

いつもの職場への通勤は、乗る時間が7時をすぎているので、メンツは結構変わっていくものの、かなり同じようなメンバーである。毎日ジャージとスニーカーでおしゃれなミドル、スーツにリュックでスマホゲームに講じる同年代(中年だ)、メモリ1GBのスマホをずっといじってるOLさん、他人の立っているところに割り込んできてグイグイ押してくる、紫の頭のバアさん。

さてその後、ターミナル駅で乗り換え、始発の下り電車に乗るわけであるが、こちらはほぼ同じメンツである。新しいiPhoneが出るたびに、発売日直後に金色のリングを付けて登場する兄ちゃん。常に何かのネットゲームをしている、結構な歳のおじいさん。座ったとたんに寝るOL。髪の毛バリバリに固めたゲームの兄ちゃん。これに、学校のある時期だと1週間分の着替えくらいは入ってそうな、バカでかいリュックを持った高校生たちが加わる。

その中に一人、気になる人がいる。白髪のおばあさんで、他のサラリーマン同様、始発駅から5つ目の駅で降りる。気になるのは、持っている本である。大抵はスリップという、しおりのようなものが挟まっているので、おそらく新しい本だ。最近はスリップは回収しないのだろうか。それはさておき、大きく分厚い単行本で、カバーを掛けないで持っているもんだから、自ずと何の本かみてしまうわけだが、毎回『政治とファシズム』『ヒトラーの残したもの』『軍国主義の日本』…。まあ、イカツイ本ばっかりなのだ。おばあさんの降りる駅は、工場地帯で大学なども無いため、大学の教員などというものでもないだろう。

その日もおばあさんは乗ってきた。立ってでも本を開くおばあさんだが、幸い座れたようである。トートバッグと言うよりも、手提げ袋というのが正しいような袋から、厚さ50mmはある本を取り出す。著者名はわからないが『社会主義と帝国主義』なるタイトルが見える。すごいよな、あんなの読む気しない。

始発なので、発車するまで約2分ほど時間があり早速本に取り掛かるおばあさん、1ページ目を開く。タイトルと目次をめくり、指をなめて次のページへ。おそらく本文が始まっているのだろう。そのまま止まっている。

というところで、ドアが閉まり、電車が動き出した。おばあさん、まだ本文の1ページ目を眺めているが、おっと、本を閉じたー。

これはどうしたことでしょう。読み始めたばかりの本を閉じてしまったではありませんか。おばあさんは電車の天井付近をにらみ、微動だにしない。その間に電車の速度はぐんぐん上がっていく。これは電車とおばあさんのにらみ合いの様相を呈してきた。さあ次の手はどうなるのか。

と古舘風の実況解説は置いておいて、全く手に持った本を読む気配はない。
そんなこんなで、次の駅に到着。ブレーキが掛かった瞬間に、おばあさんはまた本を開いた。

相変わらず、本文1ページ目。目の位置を見ていると、せいぜい2行目か3行目であろう。上下に動くこともなくジーッと同じ部分を読んでいる。

そしてまた、電車が動き始めると同時に本を閉じたー。

おばあさんは電車の止まっているときだけしか本を読めないのであろうと予想できる。しかも、めちゃくちゃ読むのが遅く、5つ目の駅につくまでに、ページをめくることはほとんどない。開いてとじて、開いてとじて、ラジオ体操である。

5駅目、全く読み進まないまま、本文1ページ目にしおりをはさみ、手提げ袋に放り込んで降りていく。

恐ろしいのは、このおばあさん、翌日には絶対に違う本を読んでいるんです。