53. 仮の仮の話。

 「まあ、仮の話だと思って聞いてほしいんだ」

大学院の同級生である野田が、そう語り始めた。彼は東京近郊の、とある研究所に勤めている。そこは、医療系の研究を行っており、私の勤務先と同様に、近くの大学の出張研究室をそなえていることから、大学院生を受け入れているのだと言う。立場も私と同じで、プロジェクトリーダーとは名ばかりの、いわゆる大学でいう助教クラスの職で、研究を行っている。

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そんな彼の研究室で、3年前から一人の留学生を受け入れた。E国人ということだが、近年E国に編入されたW地区というところの、W族に属する女性だ。

そう、3年前に受け入れた際、彼と飲んでいるとグチを聞かされたものだった。

「もうね、ホンマ、物覚えが悪くて、試薬のある棚を毎回聞かれる」
「わざと間違えて、逆ギレして次の日来ない」
「部長の言うことは聞くが、オレの話は聞かない」
「部長が、K大の先生に頭が上がらなくて、押し付けられた。試験のときはダメって言ったんだよ、オレは」
などなど。

ところで、W族は2年ほど前から、世界的に注目を集め始めたのだった。というのも、もともとイスラム教が主であり、もともとはE国ではなかったことから、E国とは全く異なる文化を持っている。カラフルな敷物など、特産品だった。ところが数年前からE国がIT関連商品の生産拠点にW地区を指定し、再開発を始めたのである。そこで、元の住民とE民族という、E国のマジョリティーとの間で衝突が生じ、公式の場でのイスラム教に関連する行動の禁止や、E民族との結婚の強制などが行われたからだ。

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2年前に、学会で野田に有ったときは、笑い話としてこの事を話していたことを思い出す。

「前話した、W族の学生。どうやら結婚してるらしいんだわ」
「へええ、旦那は?」
「旦那はE国、ていうか、W族。なんと、子供もいる」
「え?子供は国に残してきたんか?」
「そう。生まれて3ヶ月で、日本に一人で来たらしい。聞いてみたら、E国では普通のことで、生まれた子供はお祖母さんや親戚が育てて、すぐに仕事に復帰するらしい」
「で、子供はいくつなん?」
「4年前に日本に、修士でK大に来てるはずやから、4歳か5歳。女の子らしい」
「きっつー。一番可愛いときと、一番親にベタベタする時期が終わってるやん」
「そうやろ。寂しくないんか?って聞いたら、それが普通って言ってた」

ふと思いついた。
「すごいな。小説のネタになりそうや」
「どういう?」

「そやな、迫害されたW地区に住んでいた女性が、子供を残して日本に来る。しかし、能力はそれほど高くなく、意地悪で厳しい教官にビシビシしごかれて、夜な夜な旦那とネットで、涙ながらの電話をする」
「おい、意地悪な教官てオレか?」
野田が聞く。

「そやろ、他におらんがな」
「まあええわ。続きは?」

「えーと、日本とE国の間で離ればなれになった親子と夫婦。毎晩、子供が会いたいと言うが、一度E国に帰国すると、二度と国外に出られない。したがって、厳しい研究生活に我慢しなくてはならない」
「感動的やな」
「そこで、必死に研究をするわけや」
「能力は低いけどな」
「まあ、それは言うなや。そして、論文を書く」
「オレはキレまくりだ」
と野田。

「それはそうやろ、我慢せえ。論文は一流誌には当然載らん。でもまあ、インパクトファクターが2くらいのところになんとか滑り込む」
「そうなればええな」
「しかし、本人は不服なんやな。でも強制的に卒業。ビザが剥奪されて、E国に帰ろうかというところで、第三国に子供と旦那が出国できるようになるんや。しかし、本人はその国へ行くすべがない。すれ違いや」
「ノーベル賞クラスの悲劇やな。平和賞か?」
「アホか、文学賞じゃ。ノーベル賞って民族迫害とかの話好きやろ」
「あーせめて、インパクトファクター1点でええから、論文押し込みたいわ」

*

そして2020年。状況はどんどん悪くなっていく。E国では、W族の迫害を強め、歴史のあるモスクを破壊したり、ある年齢層は全て収容所に送られて不妊手術が行われているだとか、反抗心の強い人は、臓器摘出される、つまり殺されるというようなニュースが、3日と空けずに日本にも伝わってくるようになった。

そんな中、野田から連絡が来た。「Zoomで授業をやるんだけど、予行演習につなぐテストになってほしい」とのことである。もちろん二つ返事でOKを出した。どうせ「Zoom飲み会」とやらをやってみたいに違いないのだ。

その夜、野田からZoomの着信。
「おー繋がったな。聞こえるか?」
「聞こえる聞こえる。顔も見える」
「こっちも見えるぞ。あれ?もう飲んでる?」
「え? Zoom飲み会をやりたかったんじゃないの?」
「あー、オレは、家では飲まん。嫁に止められてる。まあ、コーヒーでも持ってくるわ」

野田は、ちゃんと背景に布か何かを釣って、宇宙柄になっている。こちらは背景は服が積まれている棚だ。丁度いい布がないか見回すが、そう都合も良くない。

「よいしょっと。背景消えてるよな?」
「うん、宇宙になってる」
「よし、良かった」

そこから、緊急事態の間や、研究所の対応など、他愛のないことをしばらく話した。

「ところでさ」
「なに?」
「まあ、仮の話だと思って聞いてほしいんだ」
野田が珍しく、真剣に話してくる。

「仮によ、オレが失踪したら、どうする?」
「え?」

「実はな、W族の学生な。去年の12月に、子供と旦那が日本に来た」
「それは良かった。悲劇を書かなくても済む」
「だからといって、研究が進むわけでもないし、欠勤は増えたし」
「まあ、子供いたらそうやろ」

「でな。彼女、今3年で、残りあと1年(医学系は4年)なんだけど、論文が書けん」
「あーまあ仕方がないわな」
「部長は明言を避けているが、あと1年では終わらない。でも、本人は論文を書いて、E国に戻ると言って聞かん」
「なんで、年限にこだわるんやろな?」
「そこがわからんのだわ。奨学金が切れるとかかな?」
「金くらいならなんとかなるのになあ」
「なあ。国に帰ったら、家族が引き離されて、下手したら死ぬかもしれんのだぞ」

野田が言う。
「ところでさ、亡命させる方法とか知らんか?」
「…んなもん知らんがな」
「まあ、そやろな。日本というのは、亡命先として最悪だ」
「そうなのか?」
「受け入れ率がめちゃくちゃ低いんだな。日本政府も、市町村も、K大の事務レベルでも、『W族はE国人』として処理する。命の危険があると本人が訴えても、E国の大使館に連絡してしまう」
「それは危険やな」
「そう。それで調べたわけだ。そういう支援をしている団体」

野田は続ける。
「一つは、JWCA。日本W族ナントカ…とかいう。みんなそんな名前だけど。そこはな、単なる右翼だった」
「へえ」
「幹部がI元都知事とか、ガチガチな右翼。カネを集めるだけにW族を利用している組織っぽい」
「まじかー」
「次に、WSAというところ。こっちはまともなのかもしれないけど、連絡がFacebookでしか出来ない」
「ふーん。怪しいな、それ」
「そうなんだわ。そもそもFacebook自体が怪しいからな。もう一つは、『トルコへの亡命が成功しました』とか実績は書いてるけど、内容がわからん団体」

野田に聞く。
「で、どうするんよ?」
「その内容がわからん団体が、実績からいえばましかなと思って、メールで問合せた」
「そしたらどうって?」
「返事が来ない」
「だめかー」

「でもな、研究所に変なメールや郵便物が来るようになった」
「どんな?」
「おたくの野田という人物は、科研費を不正に使っている、とかなんとか。差出人は書いてない。あと、謎の電話もかかってくる」
「メールのせいか?」
「そうだろうな。支援団体に見せかけて、E国につながっていたってことか」
「どうすんねんそれ」
「どうもこうもない。無視する」

「でな、仮にだ。仮に、オレが急にいなくなったとき、どうすればいいと思う?」
「えええ、拉致?」
「もありうるだろ。嫁にはもうすでに言うてある。クレジットカードなんかは、1つに統一して、かなり減らした」
「おいおい、すでに身辺整理か」
「もう、何が起こるかわからんからな。E国は強大すぎる」

ふと思いついたので聞いてみる。
「じゃあさ、その学生の家族はどうなんだ?」
「今のところ、何も起こってないらしい。メールに名前なんかは書かなかったからな。でも時間の問題かもしれない」
「…で、このZoomは?」
「多分、大丈夫だと思う。だから職場でなく、家から持ち出したことのないノートパソコンでやっている」

スパイ映画顔負けの、何も信用できない現実。
私に何ができるのだろうか。