38. 震災の話。

 震災の時、大学1年だった。と書くと、歳が合わないじゃないかとなるが、今回の震災とは、阪神大震災である。忘れもしない1月17日。大学1年の冬で、すでに授業が始まっていたため、O県のアパートで寝ていた。

ちょうどその直前に、6段のカラーボックスを購入し、壁側に1個、組み立て中を1個、に挟まれた状態で、実家から送ってもらったばかりの、古いPC-9801を枕元に置いて、ゲームをしつつ就寝したのが、多分夜中の1時頃。当時はインターネットというものがなかったので、毎日、テレビの終了の画面まで見ていた。O県はイナカなので、0:45から2:15くらいで全部終わってしまうのだ。夜中の港の映像とともに「火の元にお気をつけてお休みなさい」からのカラーバー、続いて砂嵐という、いまでは全く考えられないルーチンを、毎日見られたのである。羨ましいだろう。

夜から朝になるちょっと前、うっすら外が白くなりつつある頃。いや、実際には寝ていたから、わからなかったのだけど、突然床がグリングリンと横方向に回り始めたので、さすがに目が覚めた。時計は5:45である。長い。こういうときはどうするべきか。布団をかぶるに限る、と冷静に判断し、布団を頭から被りつつ、上の階の床が抜けたらどうしよう。などと考えていた。それよりも6段の、CDが上から下までぎっしり詰まったカラーボックスが倒れてくるのを心配すべきだったのであろう。

実際には1分足らず、体感では5分くらいの揺れが収まり、ベランダから外を眺めると、向かいのさらにボロアパートでは、住人の老人のほとんどが外に集まり、何やら喋っていた。結局そのボロアパートは、いまだに有るようで、Google Mapsの航空写真に写っている。また、いまの家の近所にも、1960年代くらいに建てられた2階建ての、おそらく風呂のないアパートがあるが、半分くらいは老人が住んでおり、なかなか取り壊しができないらしい。

それはそうと、地震である。NHKをつけても、東京か大阪の放送局のスタジオから、どこかに電話をかけている。今のようにすぐに現地の映像など来ない時代だ。というか、震源地がわかっていなかったのだ。神戸市長田区に有るNHKの職員の家に電話をし、その職員が「停電と断水しています。火事などは起こっていません」としばらく繰り返していた。しばらく、といっても多分30分くらいだろう、見ていても何も変わらないので、テレビを消し、もう一度寝た。確かO県は震度4だった。今から考えると、かわいいレベルの揺れだ。

大学1限はいつもどおりサボり、2限目から向かう。大学でも「朝ゆれたよなー」「すごい揺れたな」程度で、それ以上の情報はなかった。ネットがないのは平和だったよ。午後は実習で、時折教室がワシっと揺れていた。当時は知らなかったが、余震というやつである。

実習も終わり、自転車で家に帰ったのが16:30頃だったか。救急車が、高速インターの入り口に6~7台連なっているのが見えた。ははあ、高速でオッソロシイ事故が起こったに違いないと家のドアを開けると、なぜか入っている読売新聞の夕刊。いや、取ってないんですが?

そこには、横倒しになった阪神高速の写真が。

うそやろ?
朝は「停電してるけど、大丈夫です」って言ってたやん?
テレビをつけても同じ高速の話。震源地は神戸。ひどいのも神戸。ということは、実家もか?と調べると、実家付近は震度5だった。当時親は仕事に行っているだろうから、実家と20kmくらい離れた市街地に下宿していた、高校の同級生の寄居に電話をする。

「めっちゃ揺れたで。でもこっちは大丈夫やな」
「そういや、神戸大に行った白石は?」
「朝電話かけた。大丈夫や言うとったわ」
「電話番号教えて」
「…えーと、078-…」
「じゃあまた後で」
「おう」

教えてもらった番号にかけたものの「現在繋がりにくくなっております」というアナウンスが流れ、その後もつながることはなかった。

夕方に親から電話があり、3段重ねにしていた一番上の食器棚が倒れてきて、中身が割れたとのこと。さすが震度5は違うな。カラーボックスの間で寝ていた身分で言うことでもないが。

夜になり、もう一度寄居に電話。神戸の白石は「隣のビルが倒れてきて、自分の住んでいるマンションに寄りかかった状態になった」と言っていたらしい。それは家におらんやろう。にしても、どこ行ったんやアイツ。

テレビでは、夜になって火災の状況が明らかになってきたことを報じている。

それからしばらく、契約もないのになぜか投函される読売新聞と、NHK教育の安否情報を見る日々が続く。父親方の遠い親戚が、長田区で火災に巻き込まれて亡くなったとのこと。白石は出てこない。

O県のテレビ、特に深夜番組は、放送内容が2ヶ月巻き戻って、見たことが有るものばかりが流れるようになった。特に大阪収録の番組については、物理的にテープが届かないという時代だったのだろうと思う。おかげで2ヶ月ほどの『探偵ナイトスクープ』や『パペポTV』を見逃していることになる。

時は流れて3月。まだ寸断されていたJRの在来線で帰省すると、案の定2駅間を歩かされた。1階部分の潰れた瓦屋根の住宅や、2階部分だけ潰れたビルなどを見るにつけ、地震の威力の凄さを見せつけられた。芦屋付近では、マンションの上部の四角いはずの構造が、対角線に沿って崩れていて、上層階だから大丈夫ではないということを思い知らされた。

また、帰省後に寄居の家に数人で集まった際、白石の親から複数人に白石の所在を尋ねられたという。本格的に行方不明である。ただ、死んではいないとのこと。みんな同じように安否情報を見まくっていた。なにやってんねんアイツ。

なお、それから1月、白石の伯父さんから、白石が逃げ込んできたので一緒に暮らしているとの電話が、実家に有ったらしい。連絡せいよアイツ。

ところで。
阪神大震災って何年やったけ?
「忘れもしない」のは日時だけで、毎年、年がわからなくなる。