3. モチッと。

 朝の時間が好きになったのはいつからだろうか。基本的には、遺伝的に低血圧で起きられない質であったが、ドイツに出張に行った際に、時差ボケを輸入してしまってから、5時半起床の22時就寝というサイクルになったことや、半年ほど筑波の研究所に出向していたときに5時起きだったことから、休みの日でも6時半には起きるようになった。

そんなことはどうでもいい。別に残業は関係なく、始業の30分前から職場のデスクでネットサーフィンをする時間。これが至福である。私の勤務する研究所は、半民半官の企業に付属する研究所だ。現所長の須賀が、過去に会社の研究所でPという成分を発見、これが今では多くのがんの標準治療に使われる、抗がん剤の主成分の一つになっており、その功績というか、ボーナスというか、厄介払いというかで設立された研究所だ。S県の私立医大とも連携しており、須賀は教授も兼任している。研究所を建てさせるだけ有って、見た目の割に政治力は強いらしい。

ところで、研究所はほとんどのネットワークがフリーパスである。母体の会社の社員とは、建物を同じにしているにも関わらず、ほぼ接触はない。事務から伝わってくる話によると、会社の中ではSNSは一切禁止でブロックされているという。しかし、須賀所長が「大学の教授間ではFacebookとtwitterで連絡を取り合うから、使えるようにしろ」と言ったらしく、研究所からはアクセスや投稿ができるんだそうだ。須賀所長のFacebookは、年に2回ほど山の写真が載せられるだけらしい。

さて、貴重なネットサーフィン時間で、朝のtwitterタイムラインを眺めていると、事務の坂口さんが現れた。彼女は秘書のようなことをしているが、須賀所長は所長室に他人がいることを嫌って、わざわざ3階の事務室から研究所の有る6階まで呼び出すのである。いやいや、まだ始業前の8時15分だぞ。

「おはようございます武井先生」
「あ、はようございます。早いですね」
「まあ、いつも来てますからね」
今だに会話の最初に「あ、」を付けてしまうのは直らない。また、下っ端のくせに「先生」と呼ばれるのもなじまないが、一応博士号持ちなのでそこはしかたがない。ちなみに坂口さんは私よりも5歳は年上だ。社会人の子供がいるらしい。

「須賀先生がですね、武井先生にちょっと来てほしいって」
「あーはいはい」
同じ階にいるんだから、直接呼べばいいのに、いちいち3階に電話をするんだからなああのおっさんは。

「で、こないだの、なんでしたっけ?なまもみじ、あれ、すごいおいしかったんですけど」
「あ、そうなの?普通のもみじ饅頭と違いました?」
「ぜんっぜん。モチッとしていて、阿闍梨餅みたいな」
「へー」
世間では、「モチッとした」というのは褒め言葉のようだ。あんなのは米粉や上新粉などのデンプンを少し加えるだけでできるので、かなり安上がりな企業努力と言えよう。個人的には「モチッとした」はコンビニのパンに溢れかえっているので、お土産などで感動することもないのだ。

「ところで先生」
あ、なんか頼まれる。
「須賀先生がー、今度アメリカのがん学会?4月にあるやつに出るとかで、その旅費の研究費の種類、聴いておいてもらえません?」
「あー、はい。そんなん、直接聞けばいいじゃないですかー」
「そこは、ほら、武井先生と須賀先生の仲だし」
「全然、仲良くないっすよ」
「武井先生、お気に入りじゃないですかー」
「えー」
そういうことか。だいたい何かを褒められると、何かを頼まれるのだ。

部屋を出て、20mほどで所長室だ。我々の部屋も、所長室もドアが開けっ放しなのは、須賀所長の口癖「オープンラボ」である。エアコンの効きが悪くて、下の階の会社からは、ISOナントカカントカの評価が下がると文句を言われている。取得したISOの数ばかり自慢する、ISO自慢会社でもあるまいし、磯じまんか。ブンセンの「アラ!」の方が好きだぞ。デザインが。

開いてはいるが、ドアノック2回。
「シツレーします」
「うんー、ちょっと、ここ座ってー」
やばい、長いやつ。「ここ座って」のときは、悪い話と決まっている。

「4月にねえ、AACR (アメリカがん学会)があるんよー。知ってるよねー」
「はい、出るんですか?」
「うんうんー、ササキ君のを出そうと思ったんだけどぉ、あれー、まで終わってないでしょー」
佐々木君は、長野の方の大学の医学部から来ていた学生で、研究を2年やったけれども論文までは書けず、大学病院から人員不足を理由に、この春引き戻されてしまった学生だ。私は、4月からはその研究の尻拭い、穴埋め、いや、手伝いをしている。

須賀教授。
「でねー、まーキミの、Pの前駆体の研究、有ったでしょー?あれ、出そうかなー」
「発表は、先生がされるんですか?」
「そうねー。どっちでもいいんだけどねー」
どっちでも、とは?
「でねー、キミ、行かない?」

なにこの展開は?
「どうせさー、来年4月は誰も学生入ってこないじゃん。行けるよねー?」
「いや、科研費取ってないし、お金は?」
「あーそれは大丈夫。AMEDのN先生の分担とか、K財団の研究費とか、AMEDのI先生の分担も有るし」
「で、所長は行かないんですか?」
「行くよー。それでねー、最近iPhone買ったんよね。iPhoneX」
は?そういえば、長年ガラケー、それも私と同じ機種だったのに、iPhoneに変えたと見せに来ていたっけ。

「そんでねー、向こうでSIM入れてねー、使えるよねー?」
「さ、さあ?」
「まあ、日本で1週間とかのねーサービスを契約してから行ってもいいけどー、高いじゃん」
「そうなんですか?」
「そんでねー、向こうに行ってからSIMを買って、使えるようにねー、してほしいのよ」
「はあ」
「考えといてねー」

いやいや、SIMの差額よりも、私がついて行く方が高いんじゃないか?
しまった、研究費の区分を聞くのを忘れた…。