96. タバコ嫌い。

 タバコが嫌いだ。親も吸わなかったので、臭いが許せないということもあるが、それ以上に許せないのが、銘柄がわからないことである。

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少し脱線する。

その日は研究所で、とある学会のリハーサルをしていた。自分の番は「英語が間違ってる」というような微細な指摘事項で終わり、面白くはない他人の発表を聞く。

そもそもの話、リハーサルというものが嫌いである。そのきっかけとなった修士の頃にいた研究室では、リハーサルと称して、学生に対する個人攻撃を行う場であった。「スライドが古い、30年前のスライドみたいだ」「文字がゴシックで硬くるしい。コミック体を使え」などという、意味不明なこだわりから始まり「1年研究してなんでここまでしか進んでいないの?」「そもそも、研究態度がなっていない」「朝来ない」「夜はお茶部屋で酒を飲んでるらしいな」などという生活態度への文句。さらには「O大学とか元の頭が悪い」「言ったことすらしないなら、もう教えないぞ」という、アカハラパワハラのイモリも真っ青なハラスメントの応酬があった。修士時は、1年目の自分と同級生の発表で心底嫌になり、2年目は「リハーサル」と聞くだけで、冷や汗動悸息切れをおぼえるまでとなり、自分の会だけそっと参加して、さっと逃げるということをしていた。

ともかく、現在の研究室はそこまではひどくない、というか、須賀所長が学会をさほど気にしていないというのが幸いである。順番は、博士課程のお医者さんの番となった。

「…そこで我々は、エーエスの病態に対するシーエスピーの効果を明らかにすべく、実験を行いました」
もうすでにこの時点で、私の眉間にはシワが寄っている。

「…まずこちらがシーエスピーを投与した際のアイシーフィフティーのグラフとなります。だいたい2マクロモルくらいで、前駆体に比べて10倍ほど、特異性が高まって…」
「…こちらが感受性株と耐性株におけるブイエスティーブイの数値です。シーエスのカットオフは25に設定し、以後ブイエスティーブイの…」
このあたりになってくると、もうダメだこいつという雰囲気となるため、スライドは見ない。

発表後、ある意味名物になっている私からのダメ出し。
「あのねえ、シーエスピーとかブイエスティーブイとか、かっこいいと思ってる?全然かっこよくないよ。略語を勝手に作って、その定義もせずに発表しても、誰も聞くわけ無いでしょう。ちゃんと説明しなさい」
「あはは…武井ちゃん、いつもそれだよね…」
「いや、ダメでしょう。所長」
「うんうん、まあ、じゃあ、直して…」

こういう、知らない人は知らない言葉を使うということが、昔から許せない。

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そういうことが許せなくなった原因に、修士のときのとあるタバコにまつわる出来事である。

10月も涼しくなったその日は研究室のベランダでバーベキューが有り、昼から研究室のメンバーおよび、周辺の研究室の大学院生や助手を招いて、飲み会を行っていた。ポスドクの持ち込んだ七輪や、研究所備品のバーベキューグリルで、肉やサンマを焼き、酒を飲み、ご飯を食べる。そして、まだおおらかな時代だったので、喫煙組は少し離れたところでタバコを吸っていた。そこから、先輩の藤沢さんに呼ばれた。

「おい武井~。タバコが切れたし、買ってきてくれん?これ、1000円。マルボロな。生協にあるやろ」
「あー、はい」

この時、これが罠だったとは全く知らなかったのだ。

大学生協に向かい、飲み会の追加用にスナック類とソフトドリンクの2Lのペットボトルを買う。そして、外の自動販売機で、頼まれていたタバコを1箱買う。マルボロといえば、F1などの車体に描かれていた、タイムスを引っ張って伸ばしたみたいなあのロゴである。さすがにタバコを吸わない私にもわかる。

お釣りを取り、研究所に戻り、お釣りとタバコを藤沢さんに渡した。

「ありがと…っておーい、これはマルメンやないか~」
藤沢さんも、まわりの喫煙組も、何かニヤニヤしている。

「あのさ~、いつもワシ吸ってんの、この赤い箱なん知ってるでしょ~?これ、緑やん」
「藤沢さん、こいつ、藤沢さんをインポにしようとおもとんねんで」
「うーわー、めっちゃスースーするー。インポなるがなー」

マルメンというのは、『マルボロ・メンソール』なのだという。そういえば、深夜にやっているCMで、「なんとかメンソール、1mg」と言っているのを聞いたことがある。あんな火をつけた熱そうな煙でスースーするとは、どういう意味なのだろうか。また、当時は「メンソールタバコを吸うとインポテンツ(男性能力不能)になる」という都市伝説がはびこっていた。それから15年ほどして「メンソールは黒人のタバコ」という別の偏見と都市伝説が出てくるまでは、信じられていたようだ。

喫煙組で、別の研究室の先輩三浦さんが言う。
「あはは、気にすんなよ。そこの生協はマルメンしか売ってない。でも、向こうの医学部の生協まで行けば、もっといっぱい売っとんのやわ」
「…ええええ…」
「藤沢は、ああいうやつや」

この後も、「マイセンライト」が何種類もあることなどを教えられたが、結局タバコ吸いのローカルワードが多すぎることがわかった。また、どうやらそのこだわりを無視すると、タバコ吸いの気分を害するということを知ったため、二度とタバコだけはお使いの承諾をしなくなったのだ。

*

タバコというと、緑川さんである。
緑川さんは、大学の研究室で1年間一緒になった、修士卒のおじさんだ。

細菌をネタに生理活性物質、つまり新しい薬になる物質を見つけるのが、彼の仕事だった。私はまだ研究室に配属されたばかりであった。私に指導する博士課程の先輩が休学して仕事を始めてしまったことと、私の研究を把握する教官がいなかったため、配属早々、自分のペースでのびのびと研究を始めた。早い話、やや昼夜逆転の研究生活を始めていた。

緑川さんは、4月からとあるベンチャー企業から派遣され、MRSAやO-157の増殖を抑える物質を、私の所属する研究室の細菌コレクションから探すという仕事を任されていた。

T教授の「やっぱり最近流行りの乳酸菌が、毒性もないからいいよね。ラクトバチルス」という、みえみえの伏線からスタートした緑川さんの研究は、まず大腸菌の阻止円からであった。

テレビでは見たことがあるが、実際に阻止円の実験を見るのは初めてだったので、自分の実験の合間に方法を見せてもらっていた。まず直径1cmくらいのろ紙に抽出液、この場合は乳酸菌をつぶしたものを染み込ませる。それを大腸菌をこってりとまいた寒天培地のに置くと、大腸菌に対する抗菌物質が有れば、翌日にろ紙の周辺だけ円状に大腸菌が生えない領域ができて、半透明な寒天培地のみが残るのだ。

実験をはじめて1ヶ月ほど経った5月。ようやく阻止円実験の方法が確立できた緑川さんは「おーやっぱり効くねー。T先生は見る目あるなー」と感心しきりであった。

教育実習が明けた6月半ば、私は緑川さんと仲良くなり、夕食をよく食べに行くようになった。緑川さんも、九州から派遣されてきたということも有り、大学から徒歩6分の家には布団くらいしかないという生活をしていたこともあり、23時位までは研究室に滞在していた。

その日は、大学通りの少し外にある、2階の軽食喫茶で夕食を食べることにした。軽食とは言うが、大学生相手なので量が多い。ここでは私はいつも長さ7cm、太さ5cmくらいのクリームコロッケが2つ載った定食に「ソースをかけないで」と注文するのが定番だ。緑川さんは、生姜焼き定食を注文し、置いてある漫画を読んでいた。

「緑川さん、夜に研究室ではなにやってるんです?仕事終わってるでしょう?」
「うーん、論文読んだり、インターネット見たりしちょる」
「インターネットったって、見るもんあんまりないでしょ?」
「うーん、そやけど、他に無いけんなー」
当時のインターネットは、今のようにリアルタイムで物事が更新されることが少なかった。ニュースはろくに機能しておらず、新聞やテレビのほうがずっと早かった。まさか研究室でエロサイトなんか見ていないだろうが、と思ったところで、料理が運ばれてきた。

「ごっめーん、ソースかけないで言うとったけど、半分かけてもーたわーごめんなー」
おばちゃんが持ってきたコロッケの1つにウスターソースがかかっている。

「あ、これでいいっす」

「ねえ、武井くん(けにアクセントがある)、どないして、ソースかけよらんの?」
「え?クリームコロッケって、元から味濃いいくないです?」
「体に気を使いよんやねえ」

緑川さんの大分弁は面白い。高校の同級生で、九州から単身入寮してきたSや、大学の学生実験の同班であったTさんの博多弁も好きだ。私は九州弁が好きなのかもしれない。

「ごっそさん。タバコ吸うてええ?」
緑川さんはものすごい勢いで生姜焼き定食を平らげ、水を一杯飲んで言った。

「大丈夫、向こう向いて吸うから」
こちらの了解を得る前に、ポケットからタバコとライターを取り出し、壁側に有った灰皿を通路側の端に移動してタバコを吸い始めた。

緑川さんのタバコの吸い方は、先の生姜焼きと同様で"早食い"ならぬ"早吸い"である。ものすごい勢いで吸い込み、タバコが短くなっていく。何を急いでいるのかと思うが、それはそれで見ていて面白い。コストパフォーマンスは最悪だろう。

「ーーーーくぅー、たまらん!」
緑川さんは笑いながらしかめっ面をしている。蒸留酒のショットグラスを空けたガンマンのようだ。こういうのを見ると、タバコがある意味で麻薬というのもわからんでもない。

私は最後のトマトを食べ、少しレモンの香りのする水を飲みながら言った。
「緑川さん見てると、タバコってめっちゃ体に悪そうですよねー」
「あったりまえよ、体にいいタバコなんかありゃーせんわ」
「じゃあ、やめたら?」
「絶対に、嫌やけん」
よくわからない。

「緑川さんって、大学も実家も大分なんすか?」
「うん。一応一人暮らしはしよったんやけど、もう休みの日とか、超ヒマ」
「何してたんです?休みの日」
「テレビ見よるんやけど、チャンネルが民放2つしかないんよ。知っとる?夕方の4時に、『笑っていいとも!』やりよんよ。その前の番組が、徹子の部屋」
「チャンネルが違いますやん」
「いやいや、2つのチャンネルに、こっちの4つ分の放送を詰め込むねん」
「へえー」
緑川さんのこういう話を聞くのは好きだ。

「さて、ひとしごと行きまっかー」
「行きまっかー」

我々は店の外に出た。

「ああそう、タバコ買わないけん」
緑川さんは、大学通りの弁当屋の隣りにあるタバコの自動販売機に300円を入れた。
「まった値上がりしよったけん、高うて困るわ」
当時、タバコの値段がセブンスターで200円から250円に上がったところであった。

「武井くん、この中でどれがうまいと思う?」
緑川さんは、青々と無精髭の生えた顎をさすりながら私に言う。

「じゃあこれで」
私は紺色に何やら絵の書いてあるタバコのボタンを押す。

「あっ、バット!?」
ごとり。

「うーわー、ゴールデンバットじゃー。こんなん、おじいちゃんしか吸わんわ」
「え?選んでよかったんでしょ?」
「いや、どれがうまそうに見えるかなーって聞きよっただけや」
「じゃあ、わかりません」
「そうか」
緑川さんは、ゴールデンバットのパッケージを開け、1本取り出して火をつけた。

「ーーーーきっつー、これ」
「タバコってそんなにちゃいますん?」
「ちゃうちゃう。1mgいうのはめっちゃ軽いし」
「あー、しばらくゴールデンバットかよー」
「この際、タバコやめたらええですやん」
「絶対に、嫌!」

われわれは少し笑いながら、研究室に戻った。

*

翌年2月、緑川さんの精製していた、乳酸菌由来の抗菌成分が分離が完了した。ガスクロマトグラフィーで解析し、構造を決めるのだと言う。我々は卒論発表会も終わり、あとは卒業を待つだけという状態だった。私は、夜の8時頃、仮提出した卒論の手直しを終えて帰宅しようと階段を降りていると、階段の踊り場の喫煙コーナー(当時は構内での喫煙が許されていた)で、近隣の研究室の助手とともにタバコを吸う緑川さんがいた。

「おう、武井くん、ようやく取れたでー。明日ガスクロや」
「よかったですねー、で、酸ちゃいますの?」
「いや、それは絶対ない。新しい物質のはずやし、大儲けや」
「なんか、酸のような気がするんやけどなあ」

翌日夕方。

「…ガスクロの結果出た。コハク酸やった」
「…酸ですやん」
「酸やったな」
どこからか、T教授が現れ、ボソリとつぶやく。

「緑川くん、今週いっぱいでプロジェクトの契約終わりやから、会社に報告しといて」
T教授はそれだけ言って、教授室に戻っていった。

「あ、来週までなんですか?」
「うん、元から、2月第2週までって」
「おつかれっす」
「…くぅー、どうしよ。会社」
「え?」
「酸やってんやで」
「怒られますのん?」
「怒られるやろなー、クビかも」

その週の終わり、緑川さんは大分に帰っていった。