89. 好きな赤の記憶。

 休日出勤のとある7月の日曜の帰り、職場帰りにハードオフに向かう途中にある子供用品の店では、早くも夏物の売りつくしを行っていた。去年今年は、夏まつりも帰省もほとんど行われないため、浴衣やレジャー関係の衣料品は売れない。そこで早々にセールをして冬に備えるのであろう。そういえば去年だったか、休みの日に久しぶりの外出をした際、クロックス風のウレタンサンダルを買おうとしたが、いい色がなくてやめたことが有った。売りつくしのワゴンでは、ウレタンサンダルも半額になっている。紫…、いや、ピンクか…?

念のため、妻以外とはつながっていないLINEで写真を撮り、送信。速攻で返信が届く。
『紫、22.5cm』
やはり。

1年ほど前、『7月末まで30%OFF』というクーポンに踊らされ、入学準備のためにランドセルなどを購入しに近所のモールへ行った。そのあたりからだろうか。娘が「紫、とにかく紫、明るい紫」と主張し始めたのだ。「高学年になったらもうちょっと落ち着いたのが良くなるから」とエンジ色をすすめても「紫!」とパステルパープルのランドセルを選び、同系色の筆箱、上靴入れ、学習デスクなどを購入した。いや、彼女の祖父母に買ってもらった。デスクの下には、セリアの小さなマットを10枚ほど購入して敷き詰めている。

*

自分が子供の頃、こんなに好きな色という概念がしっかりあっただろうかと思う。関西で生まれ育った手前、子供の頃に衣類で黒を選ぶことは少なかった。ただ、特に好きでもない青系を選んでいたことが多かったのではないだろうか。時々ワクワクしたのは1980年代らしい、蛍光色の入ったものだった。それらも、黄色か緑であって、オレンジやピンクを選ぶことはなかった。

大学に入って一人暮らしとなり、自分の部屋を見回したとき、黒い服はほとんど無かったが、茶色やグレーなどの無難な色で占められていた。そのせいか、派手なTシャツを買ってみたり、アクセサリーなどに派手な色を選んでいたのだった。

大学の3年の終わり。研究室選びが終わり、同研究室に配属されるようになった同級生6人とともに、実際の実験を学ぶことになった。昼食の後の午後は、毎日研究室を見学しつつ、実際に実験を行う。空いたデスクにかばんを置いて、白衣を羽織って実験に入る。

その日は、温泉由来の特殊環境に育ち、特殊な酸の存在下でも生育できるという最近の植え継ぎを行った。

「こいつら、pH2くらいの酸性で増えるから、その辺でやっても絶対にコンタミはせんけど、まあ、一応ベンチでやるか」
修士2年で、繊維会社への就職が決まった先輩が言う。コンタミとは、培養中の細菌以外のものが、環境中から紛れ込んで、混ざってしまうこと。ベンチとは、クリーンベンチで、ガスバーナーのある陽圧の空気フィルター付きのガラスの箱のようなもので、コンタミを防ぐために使う。ただ、貧乏研究室だったので、そのクリーンベンチを30分も使うと、吹き出してくる風が強すぎて、目が乾いてシバシバになってしまうのが欠点だった。

細菌の植え継ぎが終わり、先輩が言う。
「お、ちょうどあいつ、大腸菌作っとるわ。君ら、手伝ったって。おーい、M。それ、新人にやらせたって」

坂口フラスコという、丸底フラスコを上から潰したようなフラスコをM先輩から受け取った。
「まずな、これを遠心するから、全部チューブに移す。遠心が終わったら、こっちのバッファーBを20ml入れて、15分氷の上に放置する。やってみ」

同窓生の中では、最も体育会的に見える高梁がフラスコを受け取り、ベンチの中で遠心チューブへ移す。
「んー、出てこんすわー、先輩、どないすればええんです?」
坂口フラスコは、先が逆Tの字のようになっているため、液体が引っかかってしまう。

「え?それだけ取れればええで。十分十分」

10分間の遠心分離のあと、私にお鉢が回ってきた。
「武井くんじゃ、うめえから大丈夫や」
O県弁丸出しの女子3人に背中を押された。
ビーカーに上澄みを移し、ピペットで20mlのバッファーBを移す。軽く揺すると、菌と思われる沈殿物がサラサラと崩れてゆく。

「よし、氷に乗せて15分やな」
私は、白衣のポケットに入れていた、カシオのデジタル時計のタイマーを15分にセットした。その腕時計は、O府の電気屋街のはずれに存在した、カシオ何でも1000円の店で、黒や青と迷って購入した、黄色のモデルだった。

「武井くん、黄色が好きじゃなー、かばんにも黄色いの付けとるし」
女子にからかわれる。かばんには、100円ショップで見つけた蛍光黄色のカールコードに家の鍵を付けていた。当時はその色しか売っていなかったのだ。

「いや、好きなのは緑」
「なんじゃーそら、わけわからんわ、武井くん」
しかし、緑とは答えたものの、本当に緑が好きなのかはよくわからなかった。

*

時は流れ、2021年。立ち寄ったハードオフで買う気はないが、ギターを眺める。数年前からのある種ルーチンである。そして、社会人になったあたりでなんとなくわかってきたことがある。赤いギターが好きだ。

赤いギターにも、色んな種類がある。レスポールなどの木目の見えるチェリーサンバーストという、赤から茶色のグラデーション。キャンディアップルレッドという、リンゴ飴色はメタリックで落ち着いたダークな赤だ。そして、チェリーレッドの目のさめるようなはじける赤。

しかし、私が好きな赤とはいずれも少し違う。私の好きな赤は、『ペンキの赤』だ。

少しダークだが、色あせた感じで、べったりと不透明な赤。郵便ポストよりも少し暗く、セブンイレブンの斜めの線くらいの赤。あえて近いものをあげると、消防用バケツの赤である。バラやツバキ、リンゴやサクランボのような、自然な赤ではない。家と言って、カラーコーンのようなプラスチックの赤でもない、人工的な赤である。

そういう赤のギターは、まず無い。ギターマニアのブログに出てくるものも、チェリーレッドか、せいぜいメタリックを抜いたキャンディアップルレッドだろう。そういう色を、ギターマニアは総じてこういう。「ペンキを塗りたくったような下品な赤」

下品な赤でもいいじゃないか。寒空の下、ひび割れから塗料が剥がれていくような赤。赤の下から新品のような鉄の地肌の見えそうな赤。超合金の光沢の有る白地にワンポイントだけ塗られた赤。マツダファミリアのミニカーのドアの赤。勢いで買ってしまったが、思いの外派手に見えるので外で着られなくなったトレーナーの赤。場末のバーのママの唇の赤。振られてしょんぼりと家路を歩くハイヒールの赤。

そういうさびしい赤が好きなのだ。

そういう赤のギターを持って、冬にアメリカンロックをダラダラと弾くのだ。