26. コーヒーを飲むペースがわからない。
学会が好きだ。もともと化学系の大学に行っていたが、大の有機化学嫌いで苦手だった私は、大学院からほぼ生物系の研究者になった。生物は有機化学以上に有機化学だが、基本的に複雑系とも呼ばれるだけ有って、よくわからないのが良いところでもあり悪いところでもある。そういったファジーさやいい加減さというのが、学会にも現れており、例えば細胞Aで見つかったことと正反対のことが細胞Bで起こっても、それは正しいのである。有機化学ではありえないファジーさ。つまり、生物学では何をやっても許されるのがいい。
生物学の学会というと、「せいかがっかい」では変換できない生化学会や、「ブンセー」と江戸の大火でも起こりそうな分子生物学会がメイン。その他に癌の学会、免疫の学会、細胞の学会などなど、細分化されている。その辺は他の分野とも変わらない。個人的に好きなのは、過去の友達にも会えるのに加え、オープンで上下関係も考えなくて良い分子生物学会だ。年会費が比較的安いのも、貧乏科学者にとっては良い。発表も「DNAのCとGの塩基だけで生物が作れる」なんていう、SFみたいな胡散臭いものが有ったりして楽しい。
一方で、癌の学会となるとそうはいかない。多くの研究者が、教え子を連れてというとほのぼのした風景だが、実際にはボスが部下を連れて大名行列というのをよく見る。学会も、サル山での権威誇示の場所なのであろう。したがって、癌の学会では所長に見つからないようにコソコソと動き回る必要がある。
ちょっとマイナーな癌と薬の学会で、オーラルセッションという、つまりスライド発表にも飽きて、ロビーでコーヒーでももらって休憩するかと、講演ホールのドアを開けたところで、不幸にも須賀所長と鉢合わせをした。
「あれー、来てたんだー」
「いやいや、来てますよ」
「ちょうどいいやー。ちょっとさー、そこでT大のMさんに会ったんだよねー。ちょっと時間あるー?」
「あ、はい」
断れない弱さ。進行中のセッションもつまらないのである。
「1階にねー、喫茶店あるでしょー。あそこにいててー」
「え?、ま、前でいいですか?」
「うんいいよー」
学会などではありがちだが、喫茶店での打ち合わせというのは苦手だ。まあ、メモくらいでいいだろ。データを見せろなんていうかな?ノートパソコンはホテルに置いてきたので、細かいデータを見せるのは無理だが、そこまで想定していないだろうと予想しつつ、N国際会議場の、仰々しい螺旋状の階段を下る。こういう身分になるまで知らなかったが、「ナントカ国際会議場」というのは、各県には最低1つはあるのだ。いなかにもあるわけで、月に何回、国際会議が開かれて、どれくらいかどうしているのであろうか。受付などのスタッフも、喫茶店だって稼働しないと仕事がないはずである。
喫茶「ザ・ガーデン」は、昼を過ぎたのでガラガラだ。おそらく会議場ができた当初からあるのであろう、食品サンプルにはほこりが被っている。「ザ」というので、「ダイソーかよ」とツッコミを入れるが、最近のダイソーは「ザ」という印象が薄れてしまった。「ダイソーかよ」なんていうのはオッサンくらいなのか。
「おまたー」
所長がM教授を連れて現れた。ノリもオッサンの居酒屋ノリだ。早速、入り口から見えにくい角の禁煙席を陣取る。奥がソファーになっており、所長とM教授が入る。カップルか。コーヒーを3つ注文し、打ち合わせと称した話が始まる。
「彼ねー、Pの前駆体の仕事してんのー。でさー、もうネタもないから、Mさんとこで見つけた化合物あるでしょー。あれ、生物系のアッセイしない?」
「ああ、構造がIみたいなやつね。5つくらい見つかってるけど、全部?」
「5個ならできるよね?」
「…えーと、1回に4つが限界だから、2回に分けて…なら」
「じゃあきまりっ」
コーヒーが来た。見た目からして薄い。ちょびっと口を付け、クリームを入れる。
所長が当てにならないので、M教授に話す。
「…えーと、5つって、類縁体ですか?」
「2つは似てるかな、あと3つは構造的にはバラバラ」
「でも活性はにてるんですよね?」
「シミュレーションではね。うちは活性は測らないから」
「ああ、まあ、そうですよね」
「…えーと、2つの似てるのは一緒に見たほうが良いですか?」
「そうだね、そうしてもらえる?あとは須賀さんに連絡するから」
薄いコーヒーに口をつける。ここぞとばかりに所長が活性化。M教授と
「ところでさー、最近ねー、T大の人、みんな辞めるよねー」
「ああ、Kさんの不正からね」
「Kさんさー、セクハラも言われてたってほんとー?」
もうただのオヤジの暇つぶしだ。
それはそうと、小さいカップに入った薄いコーヒーは、店に入って10分程度でなくなってしまった。親父2人はというと、8割方残っているのだ。仕方なく、水をちびちびとすする。
熱いコーヒーは、熱いうちに飲みたい。ミルクを入れて少し冷めてしまうと、つい急いで飲んでしまう。冷たければよいかというとそうでもなく、氷が溶けて薄くなるのが嫌なので急いで飲んでしまうのだ。また、アイスコーヒーの場合は、氷で嵩上げされていることを計算するのがまた難しく、この辺で休もうか、と思った頃には残り2割より少ないなんていうこともある。特に、他人と話しながらだと、言葉が切れた瞬間に、つい口を付けてしまい、より早くなくなってしまうのだ。先程の会話だと「えーと」の前に飲んでしまっている。その一口も、おそらく多すぎるのだろう。
敏腕営業マンは、1杯のコーヒーで2時間でも3時間での粘るというが、生まれ変わっても敏腕営業マンにはなれない。敏腕営業マンは、冷めて、下に粘りつくような、カラいコーヒーを、美味しいと思って飲んでいるのだろうか。
一方で、自動販売機やコンビニを出た瞬間、ペットボトルや缶飲料を一気に飲み干す、ということもできない。熱すぎたり、量が多かったりと、こちらはなかなか無くならず、その後ゴミ箱を探してさまよう羽目になるのだ。みんなは、どうやって飲み物を飲むペースを覚えているのだろう。
などと考えていたら、お開きになった。
「武井ちゃん、お金ー」
えーおごってくれんじゃないの?
しかし、冷めかけたコーヒーを飲んだあとの口の気持ち悪さは、なんとも言えないな。