5. もう一軒はキャンセルで。

 自由にネットサーフィンのできる始業までの30分は、朝の至福の時間である。もちろんデータ整理をしたり実験台の掃除をしたり仕事を勝手に始めたりしてもよいが、そんなものは他の勤務時間にやればよいのである。不良技術者だからな。

「おはようございます」
事務の坂口さんだ。時刻は8時20分。
「あ、はようございます。早いですね」
「まあ」
「なにかいい本ありますー?」
この時間でも有るし、間違いなく頼みごとである。初手でごまかしてきたということは、かなり厄介な話だぞこれは。

「…何かあるんですよね?頼まれごと」
「えーと、須賀所長の、えーと何でしたっけ、アメリカがん学会の旅費はどの研究費から出すって言ってました?」
「あーあれ、何とでもなるとか言ってましたよ。それに、私も一緒に来いと」
「ええっ、武井さんも行くんですか?」
「さあ?スマホの設定がして欲しいから来いとか言ってましたよ」
「ほらー、武井さん、所長のお気に入りだからー」
「そういうお気に入りはいらんです」
絶対それを聞きに来たんじゃない。

「で…本題はなんです?」
「…あの、忘年会がしたいと、言われましてね、所長に」
「宴会担当は、新人の彼じゃないの?」
「あの人、来ないから」

そう、昨年入った新人研究員、とはいっても30代だが、は大学院時代に相当遊んでいいたアピールをしたもんだから、所長に速攻で飲み会等の担当に指名された。しかし「社会人になったんで、心を入れ替えて」とかなんとか言って、指名されたまま担当引退。しかし早い話が、給料が思いの外安かったので、節約のために飲み会に参加しなくなったというのが噂の真相らしい。

「…で、いつが良いと?」
「2週間後の、火曜日がよいと」
12月はじめ振ってくるには、それはなかなか難しい話だ。
時間その他はいつもどおりだろう。参加者は研究員とテクニシャンと事務と…。
「参加が、えーと、彼こないから、いちにーさん…12人か14人かってとこ?18時半からでいいです?坂口さん来ます?」
「行きます行きます。時間はそんなもんですー。火曜日だと、テクニシャンの2人来ませんしね」
「わかりました。ちょっと待って下さいね」
思わず、出勤時に聴いていた、Bruno Marsの"Runaway Baby" のイントロと「ドゥードゥッドドドゥ、ドゥードッドドドド」と無声音で口ずさんでしまう。大丈夫、マスクをしているから気づかれてない。

ネットサーフィン中のGoogleをMapに切り替えて店を探し、2軒の電話番号をメモして渡す。居酒屋の検索が他の研究員に見られるとまずいので、タブを閉じる。
「候補が2軒有るんで、電話して『武井で』って言ってもらえます?店の人は解ると思うし」

実はこの2軒、土日のランチタイムに子供連れで入り、15人位の1週間前以内キャンセルOKで予約してもらっていたのだ。こういうところを先回りするのが、できる不良技術者、ではない、トラブル回避のプロである。なお、居酒屋のランチは、喫煙可が多いのでタバコの煙が鬱陶しいが、おもちゃがもらえたりおかわり自由など子供の受けも良い。

「さすが、武井さん。聞いてよかったー」
「決まったら、もう一軒はキャンセルするんですぐ連絡もらえます?」
「もちろん。で、なにかいい本ありますー?」

坂口さん、結構読書家で、宮部みゆきはほぼ全て読んでいる。こちらは年間せいぜい40冊。ただ、乱読で、たまに他の人は知らない作品を読んでいたりするので、彼女のニーズとマッチングがちょうどいいらしい。マッチングー。机の一番下の、本しか入っていない秘密の引き出しを開ける。

「ええと、小川洋子好きなんですよね、西加奈子って読みました?」
「いやー読んでないですねー。何系?殺人?」
「いや、これは純文学っていうか、『コンビニ人間』系」
「あーあの、賞とったやつ。まだ読んでないんですよー。図書館がずっと貸し出しで」
「『コンビニ人間』だったら、ブックオフで買ったほうが早いっすよ。薄いし」
「ていうか、持ってんなら貸してくださいよ」
「うん、奥さんが読んでてね。終わったら持ってきますわ」
「じゃあ、これで。怖くないですよね?」
「いや、ぜんぜん」
「はーい、ありがとうございまーす」

坂口さんが去ったあと、Googleのタブを閉じたブラウザには、Mastodonでブーストされて回ってきたエロ画像が表示されていたことのに気づくのであった。