105. 仕事で学んだつまらないこと。

 学生生活を終えてから、私はかれこれ20年近く仕事をしている。大学院を出ている分、社会に出たと言えるのは遅いが、大学の4回生から似たようなことを仕事にしているので、25年ほど働いているとも言える。

仕事の中で身についた大事なことは、3つある。1つ目は、慣れるまで続けられるのが、一つの才能であること。2つ目はどんなすごい仕事でも、やっている人やなしとげた人のほぼすべては、普通のおじさんかおばさんであること。3つ目が、締切はなんとかなることである。

他にも、他人の休みにはケチを付けてはいけないとか、休みを取れなかった恨みは食べ物の恨み以上に根に持たれるとか、休日明けに機嫌が悪い人とは、上司であっても付き合ってはならないなど、いろいろとある。それらはいったん置いておく。そして、1つ目と2つ目は、言うとなんとなくわかってもらえるのでいいとして、3つ目だ。

「もう無理です」

このセリフを聞くのは何度目か。数年前から、こういう弱音をはく学生が増えた。国立S大やN大、私立でもR大やT大の学生を取っていた頃は、全く聞かなかった。大学院生不足が日本中で叫ばれるようになり、我々の研究所でもあまり聞かない私立の単科大学やつてを通じて紹介された留学生が増え始めた時期と合致して、期日までにものを仕上げられない学生が増えた。

世間では、詰め込み式の受験は、燃え尽き症候群だのなんだのと弊害ばかり取り沙汰されるが、実際にはその受験を経験していないほうが、こらえたり深く考えたりということができな傾向が強いのではないかと私には思われる。少し前に、30年まえのテレビCMのセンスが良いと話題になっていたが、30年で深く考えることを拒否するようになった視聴者が増えているだけではないのか。そして、制作側も考えない世代が増えたのだ。

「あのさあ、修論の締切は来週の火曜でしょ?今、金曜日の14時。17時までは所長はいるから、最終版の原稿、出して週末にしよう。な」
「だって、今更、図の順番を変えろって無理です」
某看護大卒の学生が泣き言を言う。理由は、文章中の「図3」から「図7」が全部ずれるからやりたくないのだ。検索して書き換えればいいだけの話だが、面倒だというのだ。

「そう言われたんだから仕方ないだろ。違うってキミが言えなかったんだし」
「思ってたんなら、なんで武井さんも言ってくれないんですか!?」
「ちょとまて、私は最初から、図の出現順がおかしいってチェックしてる。先週の第1校から指摘してる」
「でもあのときは、所長はそれでいいって…」
知らんがな。科学論文の常識を無視して書こうってのがおかしいのだ。

それよりも、締切の2週間を切ってから、初めて論文の原稿を見てくれと持ってくるその神経のほうがおかしい。 半年ほど前から「書けた部分から直すから持ってきてね」と言っていたが全くアクションを起こさず、1月ほど前に所長に「修論書くんでしょー、書くんなら武井ちゃんに見せてからにしてよねー」と言われて初めて動き始めたのだ。その前は地元の友達がどうとか、親がどうとか理由をつけては1ヶ月ほど研究室に来なかったのだ。年末の学会も困りものだ。

「まあとにかくさ、まだ直したいところはあるけど、出してからも修正は効くから、まず所長の気に入る形にしような」
「無理です」
「17時に所長。その前30分までなら、細かいところは見るから。細胞の培養してくる」

言ってる暇があるなら、その時間に手を動かせと思いつつ、言わずに飲み込んで実験室へ向かった。

自分のときはどうだったかな。卒論は最初から期日に最終版を出す気がなく、仮の論文を出した。それも褒められたが、修士時の大学院の図書館が充実していたのを利用して、いちから全部書き直して郵送で送った。修論は、同級生が何日も徹夜していたのを見て、ちょっと焦って一緒に一晩徹夜しただけで完成した。3度目に教授に持っていったら「まだ見るの?もういいよこれで」と呆れられたが、同級生たちは10回以上原稿を持参していた。修論は研究室の新記録、締切の2週間前に完成だった。

博士論文のときは「投稿論文を持ってきてもだめ。博士論文をなめてんの?」と言われ、徹夜こそしなかったが、1ヶ月ほど朝の6時に研究室に入って書き上げた。当時は英語で提出だったため「まあいいか、英語はひどいけど」と言われるまで何度も持っていった。その時ようやく締め切りの苦しさを実感し、それが最後だと思ったのだ。

甘かった。社会人になると、締め切り締め切り論文読み締め切りと、大体週に平均2つくらいは締め切りに追われるのだ。申請書に評価調書、決済書に計画書。それらも不思議と締め切りの2日前くらいに気がついたら終わっている。論文紹介用の締め切りが一番ギリギリだが、30分くらい前には準備ができる。準備自体が30分くらいしかかからないこともある。

さらに、研究という技術系の仕事をしていると、締め切りはあっても、書類を書く時間は勤務時間や業務時間に計上されていないのである。現場で作業の合間に書くしかない。

こういう感覚が身につくには、時間配分を把握して配分する必要があり、それを無意識にやっているのだということに気がつくのだ。細胞培養40分、RNA取りに1時間。午前中に1時間ちょっと取れるな、などと考える。デジタル時計ではなく、アナログ時計の感覚だ。アナログだと、残り15分だな、などと感覚で把握できるので好きなのだ。

動かない学生に、ギャンギャン急かしても無駄である。所長は「ねえー、彼女なんとかしてようー」と要求してくるが、やったところでいいわけで無駄な時間がかかるだけなのだ。

大学の教務は頼み込めば2日位は待ってくれる。本人の尻に火がつくまで放っておこう。でも、締め切りが危なくなったときに泣きつくのは私ではない。
わかってるかなあ…。