8. 耳引っ張られるも他生の縁。

 そのとき突然、左耳が引っ張られ、喧騒が乗り込んできたのだった。

東武線の朝晩の混雑はすごい。もちろん、首都圏に向かうわけではないので知れているが、雨の日にビニール傘を持って載ったら、降りるときに曲がっていたくらいにはすごい。すごいなりに客が穏やかなのは、やはり田舎なのであろうと思う。JR線なら刺すか刺されるかの緊張が有る。東武線でも1月に1回は喧嘩も有るのだが。

耳が引っ張られた、と思ったのは、イヤホンが抜けたのだ。ではなぜイヤホンが抜けたかというと、コードが引っ張れたからであり、なぜコードが引っ張られたかというと、隣の女性のウールのコートのバカでかい袖についたボタンにイヤホンのケーブルが引っかかり、絡んだ状態で、それまで下げていた左手で吊革を持ったからに相違ない。

20代後半から30代の半ばか。よくいる会社員らしき女性。ひょっとしたら派遣かもしったこっちゃない。その女性は、左腕から蛍光黄色のケーブルをぶら下げたまま、眼鏡の奥の目は遠くを見つめ、全く気がついていないようである。耳には、うどんのようなと形容されるワイヤレスイヤホンがぶら下がっている。

「あの…」
と声をかけるも、讃岐か武蔵野か、うどんのイヤホンのせいなのだろうか、全く気づかない。仕方がないので、トントンとつついて知らせようと思うが、さて、痴漢と勘違いされないところはどこか。

以前に朝の超絶混雑したJR線に載った際、電車が揺れるたびに、後ろから視線を感じるので、振り返ったところ、間違いなく「痴漢でしょ!?」という目でこちらを睨んでいる。睨んで入るけど、その女性との間には、別の女性が立っているので、物理的に触れようがない。私の左側に立っていた男性も睨まれていたらしく、尾久~上野間で一言も会話をかわさず、視線だけでその男性との友情が芽生えたのだった。そして幸いにも、愛情ではなかった。

さて、痴漢と勘違いされなさそうな場所、肩か?いや、背後から触ったように思われるかもしれない。したがって、大丈夫なのは腕だ。吊革を持った左腕。できれば肘付近が良いだろう。そう思って右手を上げかけたその時、

「ぅぅあおうおあっ!」
私から見て左手のドア付近からの甲高い奇声に、車内は注目する。乗車する人が多いと、障害のある人も一定の割合で乗ってくるのだ。2路線使用していると、週に1度は見かけ、誰も気にしていない。

大学院の頃には、ラムネの入ったプラスチックのおもちゃのマイクを持って、阪急線の先頭から最後尾まで、大声でアナウンスの真似をしながら歩く男性がいて、結構有名人であった。最後尾まで言ったらどうするかというと、先頭まで戻ってくるのだ。

さて、こちら東武線、流石に隣の女性も気がついた。先程までのボーッとした目に、視線が生き返った。よくアニメなどで、何かに取り憑かれて操られている人はグレーの目で描かれ、正気に戻った瞬間に、濃い黒やブルーに戻る、あれそっくりの変化である。

「あ、すいません」
流石に引っかかっていることに気づいたようである。

ようやくイヤホンを外しにかかった。マクセルの400円のイヤホンは、安い割に音はいいが、どうも粘り気があるというか、癖が付きやすいというか、絡んだら取れにくいのである。ボタンから絡んだ黄色い被覆線を無事外し、手渡してくれる。

「あ、どうも」
と右手を出した瞬間、
「アグッ!」
女性が前の座席側に倒れた。
後ろに立っていた大学生風のノースフェイスのリュックが、電車の揺れで女性に激突し、ふっとばされたのだ。リュックはおろすか前に抱えろと言われてるだろうがボケナスが。

女性はかろうじて踏みとどまり、口を開けて寝ていた男子高校生にマウストゥマウスを実践することは、残念ながら、いや、かろうじて避けられたのであった。

朝の通勤電車というのは、大概こういうものである。

恋が芽生えることは、

ない。