72. ゾンビ in the ラボ。

 あれは、修士課程だった時の話。今と違って、研究室に「お茶部屋」称する、昼ごはんを食べたり、場合によってはミーティングを行う、キッチン付きの大テーブルの有る部屋が有った。夕方を過ぎ、金の無い大学院生が複数人集まると、自ずと「夕食」と称した、飲み会が始まるのである。

飲み会とはいうが、22時頃までは、途中で抜けて実験をしていたりする。培養作業などは、アルコールが入っていないときに比べても、早いレベルだ。それで失敗したことはない。試薬の出しっぱなしは有ったけれども。

22時頃。ビールなどの高速に飲むアルコール類、量を食べる食べ物は終わり、ワインやウイスキーなどをちびちび飲みつつ、論文執筆用の共通のコンピューターでインターネットのくだらないサイトを見たりしながら、無駄話をしていた。その日は、私と同級生の野田、市川、先輩で博士課程の川崎さん、藤沢さんと、上の階のポスドクの三浦さんの6人で飲んでいた。それまでは、イングランドサッカーの選手の話なんかをしていたと思う。

「あのさ」
突然、東京出身の藤沢さんが切り出した。
「ゾンビって、作れるかな?」
「…はあ?何なんですか?藤沢さん」
「いや、映画とかで、ゾンビって有るだろ、一体、何がどうなったら、ゾンビなんだ?」

なるほど、考えてみたことがなかった。

「藤沢はさー、科学的にゾンビができるかって、そう言いたいんか?」
三浦さんが、半分寝ながら答える。
「そうっすよ、三浦さん。だいたい、ゾンビってなんなんです?」
「あれは、あれや…。あのー、幽霊みたいなやつや」
「いやいやいや、ハイチのゾンビ伝説って、実際に死んだ人が生き返るんすよ」

「えー、あれって、仮死状態になってた、とかいうだけやないんすか?」
同級生の市川がツッコむ。すかさず藤沢さんが答える。
「いやいや、市川くんさ、仮死状態の人が普通に戻るだけで、何の意味がある?なにか意味が有るから、ゾンビとして、言い伝えが有って、映画になるわけだろ?」
「うーん…」

さすがに私も黙っていられなくなった。
「そもそも、ゾンビって、どういう現象なんですかね?」
野田が答える。
「それはー、死体が動くっていう」
「それは、心臓が止まってるってこと?」
「死体だからな」
「そうかな?死んでるかどうかは関係なくない?体温がものすごく下がって、特に思考能力が低下して、生きている人間を襲ってるとかいう仮説はどう?」

「でもさー、内臓が出たり、顔が骨みたいになったりするじゃん?」
藤沢さんに突っ込まれる。
「まあ、そこは、映画の脚色っていうところで…」
三浦さん。
「いやー、脳の機能が低下して、内臓が出るくらいダメージを受けても、痛みを感じないのかもしれんな」
さすが、神経系の研究者だけ有る。
「神経の問題だとするやな、何らかの原因で、脳が乗っ取られて、人を襲いたくなるけど、痛みなどには鈍くなるのかもしれんな」
それを聞いた市川氏。
「寄生虫なんかにも有るっすよね。カタツムリの目に寄生するやつとか、カマキリのハリガネムとか」
川崎さん。
「おーそれ聞いたこと有るわー。カタツムリの目に寄生して、虹みたいな派手な色に変えて、、神経をを乗っ取って鳥に食べられるように木の高いところに行くっちゅーやつ」

地味にまだ缶ビールを飲んでいた野田は、インターネットで検索しているようだ。

市川氏。
「ハリガネムシは、産卵のために、カマキリを水辺に行かせるんですよ。意志と関係なく、水に入ってしまう」
「あー、それで釣りのときにカマキリがやたらといたんか…」
と私。
「それは完全にハリガネムシに操られてるな。他にも、魚を操る寄生虫、鳥の行動を変える寄生虫いうのも有るんやで。ケケケケ」
変な生き物マニアの市川氏らしい。

「…うわ、これか。ロイコ…クロリディウムか」
野田の様子を見て、みんなPCの画面を見に行く。
「うわー、虹っていうか、緑やん」
「うーわー」

「なるほどな、生きた人間がこういうのに脳が乗っ取られて、人を襲う。なんか少しわかった気がする。脳というか、頭を破壊されると動きが止まるのも合ってる」
と藤沢さん。
「でもさー、映画とかで、ガイコツになっても、上半身だけになっても、追いかけてくるやんか」
川崎さんはいう。
「いや川崎、それはないわ」
三浦さんだ。
「人間くらいの大きさの体重を支えて、動かそうとしたら、結構な量の筋肉が要るんや。骨だけになったら動けん」
元医学部にもいただけあって、体の組織レベルで考えている。
「それにな、体の細胞が死んでしまったら、外から入った寄生虫やろうが微生物やろうが、生き残れへん」

「よし、わかった。ゾンビの本質は、脳および神経系が乗っ取られた、生きた人間ということにしよう。神経が麻痺していて、痛みなどはあまり感じない」
藤沢さんはそういうと、自分のロッカーから、何やら青い瓶を取り出した。
「じゃあ次。なんで人を襲うんだ?」
青い液体を、氷の入ったグラスに注ぎながら言った。

「その前に、それ、何すか?」
「ブルーキュラソーだよ。ブルーハワイの青色」
「何の色です?」
「海藻だよ。ただ、甘くて全然減らない。ちょっと飲んでみるか?」
グラスを持ってかぐと、なんだか不思議な薬っぽい匂いがする。少し飲んでみると、少し苦味のある甘さだ。確かに、かき氷には良いかもしれない。
「これに、これを入れる」
階下の自販機で買ってきた、CCレモンを加えた。
「飲んでみ」
「…まだ甘いです。頭が痛くなりそうな…」
「そっかー。みんなそう言うんだよな」

「じゃあ、ゾンビが人を襲うのはなぜか?」
野田が即答する。
「やっぱり、生物学的に、子孫を増やしたいからでしょう?」
「子孫って?」
「うーんと、さっきの寄生虫とか、ウイルスとか」
「なるほどな。ウイルスか」

「でもさ、藤沢さん、ウイルスにしたら、宿主の人間が死んでまうんでしょ?意味なくないっすか?」
川崎さんが問う。
「そやな、川崎くん。でも、噛まれて数日で表現型が出るとしたら、ウイルスぐらいの感染力が必要なんじゃないの?」
「いや、藤沢。寄生虫で、脳に直行するやつなら、数時間で症状が出てもおかしくないぞ」
また三浦さんだ。
「寄生虫の中には、皮膚の中をどんどん進んで、脳や目に住み着くやつが要る。通常は川魚や生肉、カニなどから入るんやけど」

「うーわー」
野田がまたネットで調べている。
「…蠕(ぜん)虫ってやつ、怖」

藤沢さんが言う。
「寄生虫がすごいってのはわかったんだけど、ラボで作れるって言うと、組換えウイルスですよね」
「うん、まあね」
三浦さん。
「でも、ウイルスで行動を乗っ取るっていうのは、結構難しくないか?藤沢」

そこへ市川氏。
「狂犬病ウイルスって、水を怖がったり、人を襲うようになりますよね」
「そうやな、市川くん。ゾンビ伝説の発祥には、狂犬病ウイルス説も有るんや」
と、三浦さん。
「え?知ってたんですか?」
「知ってたで。元狂犬病ウイルスやってる研究室にいたしな」
「他になんかあります?」
市川氏は興味津々だ。

「ゾンビ伝説と、ドラキュラの話、昔話をずーっと遡ると、完全にではないけど、少しクロスするんや。どっちもオオカミが関係しとる」
「狂犬病や。ヒトが噛まれたんですか?」
「いや、ちょっと違うんや。当時オオカミの挙動がおかしくなったという記載がちょっと有る」
「ちょっと」
「うん、まあ、オオカミに直接噛まれたわけやないんやな。それでって言うわけでもないけど、中央ヨーロッパや中央アメリカで、血を吸うコウモリが見つかったという話がある」
「コウモリか」
「コウモリも、狂犬病ウイルスを媒介するんや。墓場とドラキュラ。カーミラの話は吸血オオカミやろ?」
「カーミラって?」
「カーミラも知らんのか。アイルランドの女吸血鬼や。オオカミに姿を変える。ま、オオカミとつなげたんは、手塚治虫やけども」
「なんやそれ」
「いやな、アイルランドには、チスイコウモリがおらんのや」
「ああ、なるほど。手塚治虫もちゃんと考えてるな」
「そらそうや、ウチの大学の医学部卒やからな」

三浦さんは続ける。
「その狂犬病ウイルスやけどな。一つ欠点がある」
「ほう、なんです?」
三浦さんは、ウイスキーをあおる」
「…あれ、筋肉に感染しやすいんや」
藤沢さんは、青緑の液体をガバガバ飲みながら、
「別にええんやないです?」
「良くないねん。筋肉に感染して、筋萎縮を促すんやな。だから、手がこうなったりする」
三浦さんは、右手の爪を強調するような、かきむしるような格好をする。

ウイスキーを飲んでいた川崎さんが反応する。
「ああ、だから、ドラキュラやゾンビが、何かを掴もうとしている手をしてるわけっすか」
「そうや、川崎。それにな、口を開いて、犬歯を強調するのも、だいたい説明がつくわけや」
「夢がないっすね」
市川氏。

「あとな、狂犬病ウイルスが感染して、緊張する前に、まれに脳死状態になることが有るんや」
三浦さん。
「えっ?」
「たまにな、神経にも感染しやすくなったやつがおる。これの原因がわかってない」
「それじゃないんすか?」
「そやろー。で、アメリカでワシ、それの研究やっとってん」
「ま、マジすか…?」
藤沢さんも絶句する展開となった。

「ミーズルズ、いや、麻しんのウイルスって有るやろ」
「あれね」
「あれ、神経に感染しやすいねん」
「それって…」
「うん、狂犬病ウイルスの表面の膜にあるスパイクタンパクを、麻しんに置き換えたやつを作ってた」
「めっちゃまずいやないですか、それ」
川崎さん。

「そうでもないで。犬に感染させたら、3日で仮死状態になりよる。そこから起きへん」
「その後は?」
「よだれでウイルス吐き出して困るから、焼却処分してたわ」
「つまり、その後どうなるかは」
「知らんな。その後を見る前に帰国したし」

「そのウイルスってどうしたんです?」
「ああ、アメリカのラボに有るんやない?」

そのウイルスに感染し、死んだと思われていた人が、一週間、一ヶ月後に息を吹き返したとしたら…。