114. 夢の中の春。

 私は眠るのが下手だ。どれくらい下手かというと、保育園のお昼寝の時間に一度たりとも眠らなかったほどの下手さである。小学校の林間学校や修学旅行でも、おそらく2~3時間くらいしか眠れず、最後まで眠りにつかず、誰よりも早く起き出して廊下をさまよっていた。大学の3年までは、講義や講演でうたた寝をするなんて想像もつかず、つまらない授業の間は、古本屋で分厚さだけを指標に選んだ文庫本を読んでいた。

眠りにつこうとすると、いつもなにか不安なことを思い出す。思い返せば、ものすごくしょうもないことなのに、その時は命に関わるレベルでのおおごとに感じてしまうのだ。小学校で数人を除いて嫌われていること、体育の着替えの際にHさんの着替えているところが見えてしまい、その後女子の集団に責められたこと、ゴルフボールを載せてラジコンを走らせたらボディの先が割れてしまい、瞬間接着剤でくっつけたこと、部活はサボっているのに新しいスパイクを買ってもらったこと、英語の授業で「オルタネイティブ」と発音して教師にバカにされたこと、模試の判定が全部E判定だったこと、大学2年の秋なのに付き合いそうな女子の一人もいないこと、大学院でもう1週間昼夜逆転してしまい、教授から度々電話がかかってくること、後に妻になる彼女に電話をしても常に留守電で出てくれないこと…。

就職してしばらくし、入眠のコツを一つだけ覚えた。上を向き両手をお祈りのように組んで、意識を約2m、天井近くに飛ばす。仰向けで空中に浮いているイメージのまま、ワンキーのゲームのように空中に浮いた体が沈んだり天井につかないように調整していると、かなり早い時間で眠りにつくことができる。しかし、これを開発したのは今は来客用になっているベッドの上であり、妻や子供と川の字で寝ている今では通用しなくて、2~3時間眠るでもない状況になることは多々ある。

眠りについた。

夢の中でしっかりした意識がある。何だっけ、後藤さんだったよな。私は、立派な庭のある家の、赤いレンガ造りの門にあるパナソニックのインターホンを押した。

「いらっしゃい。休みの日なのに悪いね」

後藤さんは、事務と言っても、研究とは関係のない会社の2階にある総務部の部長だ。総務部は、本社同様に私達の所属する研究部門を「金食い虫」と敵視しており、今の所長がそれを嫌って、約10年前に研究用事務室を3階に分けたのだ。後藤さんとは、2年前の歓送迎会のときに出会った。

歓送迎会とは、移動後の人を4月に移動前の地域へ呼び出すとんでもない習わしである。メインはえらい人たちの演説。それに我々が賑やかしの拍手をする。あとは適当に食って飲めというビュッフェタイプのパーティだ。我が支社においては、大宮駅前のホテルの会議室で行うため、なかなか良い料理が出てくる会である。

「私はね」
「は、はい?」

その時は、左手に皿を2枚持って、ローストビーフを研究所のテーブルに運ぶために4枚か5枚か考えていた。バングラディシュの人ってビーフは食べるのかな?と思いながら。というか、一言目に「私はね」と話しかけるこの人のセンスってどうなの?

「君は研究所の人だよね。私は総務部の後藤」
「はい。研究の武井です」
「武井さん、あなたは結婚しているの?」
「あ、はい。娘も一人います。小学生で」
「はあ、そんなに若いのか。君はそんなに若くもないだろう」
「…ええまあ、四捨五入したら50ですし」
「そうか、娘さんは可愛いか?」
「まあ、人並みには」
「うちもね、娘がいる。もう30だ。家も出た」
「そうなんですか」
「結婚はしてないんだが、都内で何か、小さい雑誌を作るとか言って」
「はあ、あの、ちょっと料理を置いてきますね」

皿を2枚持って話す話でもないなと思い、一旦研究所のテーブルに置き、開けたばかりの瓶ビールを持って後藤部長のところに戻った。その後、ビールをちびちび舐めながら聞いた話によると、後藤さんは61歳で、あと4年で引退する。奥さんは48のときにがんで亡くなり、支社のある駅から2駅のところにある、4LDKの二階建ての家に一人で暮らしているという。奥さんの趣味であった庭が荒れるのは心苦しいので、年に2回、プロの庭師に管理してもらっているらしい。

「でもね、庭師ってプロなんだよ。味気ないっていうか、妻はもっとフィーリングで切っていたんだけど」
「はあ、丸く切るくらいなら、こういう、ジャキジャキっていう、両手で持つハサミでできますよ」

それだ。それで頼まれたんだった。

後藤部長の家の庭は、雑草もなく、予想していたよりもきれいに整備されていた。

「まだ春だからこんなもんだけど、これから伸びるからね。そこの金木犀と、あそこの赤いやつ、そっちの小さいのを切ってほしいんだ。それ以外はプロに任せるから」
「え、あの、小さいのはアジサイだから駄目っすよ」
「駄目か?」
「アジサイは7月に切ったら、できるだけ触っちゃ駄目です」

本当に何も知らないんだなこの人。

「じゃあ2本、丸く切ってくれるか?」
「わかりました」

私はハサミと脚立を借り、金木犀と三色カナメを切っていく。金木犀は脚立の天に立たないと届かない。

「ははあ、そうやるのか」
「下の方はハサミはこっち向き、上の方はひっくり返すと切りやすいですね。あと、時々離れて見て、形を確認するんです」
「自分でもできるかな?」
「え?できるようにするなら、金木犀は頭を50cmくらい低くしたほうがいいんですが、この道具では難しくて」
「そうか。今度プロが来たときに言ってみるかな」

じゃあなんで私が切っているんだ?という疑問が出そうになる。

「ああでも、はしご作業は、必ず誰かが近くにいるときにやったほうがいいですよ。倒れたらそのまま死ぬかもしれないんで」

「そうだな。また君を呼ぼう」
「え?」
「冗談だよ。妻が生きていた時は、妻でも届くくらいだったのに、気がついたら大きくなっていたよ」

そんな会話をしていると、玄関に誰かが来た。

「パ…お父さん、何やってんの?」

東京に出たという娘だろう。

「うん、うちの研究所のタケ…えーと、何だっけ?」
「武井です」
「そう、武井くんに、木の切り方を習ってる」
「え?そんなのトーマツさんに任せたらいいでしょ?」
「うん、でもなんか味気なくてな」
「味気なくても、プロは長持ちするでしょ。ママがやっていたときなんか、毎月切ってたよね」

トーマツという造園業者にたのんでいるんだろう。総務部長がたじたじとなっているのはちょっと面白い。

「あ、でもな、武井くんは既婚者だ」
「何の話ですか?」

たった2本の形を整える剪定なので、20分ほどで作業は終わり、落ちた枝を集めていると、後藤親子がお茶を持って掃き出し窓のところに置いた。

「今日はありがとう。お茶しか出ないけどすまんな」
「いえいえ、そんな」
「あの、始めて来ていただいて何なんですが…」

後藤さんの娘が話しだした。1階の北側の四畳半の和室に、母親、つまり後藤部長の奥さんの作業場があるのだそうだ。奥さんは趣味で庭をいじるとともに、編み物や人形を作ったりしていたのだという。そこに小さな物入れのタンスと文机、本棚が残っているのだが、亡くなってから風を通す程度でなにも触っていないのだそうだ。

「…私が高校のときに、母が亡くなって、そのまま全然手を付けられなくて…」
「うん、妻が大事にしてたんだと思うが、何が大事なのかもわからんし…」
「それで、あの、何も思い出のない人に、捨ててもらおうと…」
「ちょ、ちょっと待ち」
「ん、礼は弾むぞ」

どうも後藤部長のノリは掴みづらい。

「いやあの、思い出の部屋なんでしょ。捨てちゃ駄目なんじゃないかと」
「ああ、そういうこと?いいんだ」
「どうして?」
「実は、退職したら、熊谷の方に平屋の小さい家を建てたんで、そっちに引っ越すんだ」
「そうそう。だからこのへんで思い切ってポーンと」
「ポーンと」
「ポーンと?」
「捨てようかと」
「…わかりました。で、何をすればいいんです?」
「机と棚を解体して、ここで燃やそうと思う」
「庭でですか?」
「うん、リサイクルなんかに出したら、未練が残るからな」
「…うーん。じゃ、じゃあ、金槌とノコギリと、物によってはドライバーが必要ですが」
「うん、わかった」

小部屋を覗くと、すでに本や小物は束ねられ、ゴミ袋に入れられていた。

「その机と、タンスと、その棚な」

タンスは昔の薬入れだろうか。小さな長方形の引き出しがたくさん付いているものである。机は黒光りした結構分厚い木だ。棚は普通のカラーボックスだった。

「あー、なんかたしかに、いい机ですね」
「嫁入り道具に持ってきたって、ママ…母が言ってました」
「タンスは?」
「それはそのへんの古道具屋で買ったって」
「そうなんだ」

机やタンスを庭に運び出す。机は長年の相棒となっていた壁が無くなって、所在ない様子になる。ごめんな、これから、切る。

「燃やすのはな、そのままだと危ないから、この缶の中でやる」
「これは?」
「買ってきた。ホームセンターで1980円だ」

その値段で粗大ごみに引き取ってもらえる気がするが、言わないこととする。

「じゃあ、壊していきますね」

まずは簡単なカラーボックスから。ネジを取るだけで小さくなり、上から思い切り踏むと、ベニヤ板が細長く割れていく。次にタンスだ。引き出しは金槌で叩いていくと細かい木切れになった。取っ手の金具が良さげだが、このまま燃やすとしよう。

「はいはい。私は火をつけるからね」

後藤部長が木切れを缶に入れ新聞紙に火をつけて放り込む。最初は火が点く気配がなかったが、古いタンスの木に燃え移ると勢いよく燃え始めた。

「あー、思ってたよりも熱いな。冬にやればよかったかな」

最後は強敵の文机である。表面加工や重さから言って、中身の詰まった本当の木が使われているのだろう。天板の厚みは3~4cm。足の部分も同じくらいだ。作業されていた部分とみられる中央部分はテカリがなくなり、5mmくらいの細かい傷がたくさん入っている。正直なところ、壊して燃やすなどもったいないと思うのだが、後藤家にしたら思い出を断ち切るには壊すしか無いのだろう。接続部分もどうなっているのかわからず、大きな木をコの字にくり抜いたように見える。ノコギリをどこからいれるか悩むが、缶に入るように切るとなると、まずは脚と天板を切り離さなければいけないのであろう。

天板の、右端の部分にノコギリを当てる。ガリッと傷がついてしまったら、もう引き返せない。後藤親子が後ろから固唾をのんで見ている雰囲気が伝わってくる。斜め後ろの雰囲気を感じながら、両刃のノコギリをひと引きすると、後ろからすすり泣く音が聞こえてきた。

「あ、あの、やめます?」
「いや、やってください」
「いいんです?」
「いいよ、一気にやって」

嫌な役割だなあ、お茶一杯の休日出勤でこれかよと思いながら、コの字の片側を落とし、次にへの字の曲がったところを落とす。

「いいんですよね?」
「うん、燃やせるくらいの大きさにして」

後藤部長の娘が声を出さずに泣いているのが見える。後藤部長もメガネを上げて涙を拭っている。なんか、死体を細かく切り刻んでいるような、後ろめたい気分を感じながら、横幅15cmくらいの細長い板8枚に分割する。娘さんが肩を震わせてしゃくりあげているが、私を止めることはしない。本当にこれは私が行っていいことなのだろうかと考えてしまう。しかし、本人たちにはできなかったから、私に依頼が来たのだと信じて黙々と切ってゆく。春先とはいえ、横で火が燃えていると暑い。というか、熱い。

後藤部長と娘は、細かくなった机の破片をタンスの火が勢いよく燃えている缶の中に、ゆっくりと押し込んでいった。4~50分ほど経っただろうか。後藤親子が家具があらかた燃え終わってまだ少し火が残っている缶に、すでに束ねられていた本や、作りかけの布や残り物のフェルト生地をほぐして入れ、燃やし始めた。私は後藤部長に声をかけた。

「あのー、もう、いいですかね」
「ああ、今日はありがとう。これは、お礼だ」

後藤部長から渡された封筒には1万円が入っていた。しかし私は、後藤部長の奥さんの死体でも切ったような落ち着かない気分で家に戻り、1万円のことも言い出せずに夕飯を待つ。

ああ、なんかちょっと贅沢なものを買って帰るべきだったかな。それとも帰りにブックオフにでも寄って、パーッと使ってしまうべきであったか。欲しかった本、いや、あぶく銭ならデジカメとかなんかそういうものでも良かった。最近は中古のデジカメって1万円で買えたんだっけな?まあいい、明日も休みなんだから、これを持って街なかに。

そこで目が覚めた。

そうだ。いつも夢の中では、何かを手に入れられずに終わるんだった。

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(たまには筆者余談)
久しぶりの更新になります。仕事が立て込んでいたり、絵を描きたかったりとやりたいことが多くて、小説をあまり書いていません。今回のものは朝の時間で一気に書いたもの。変換ミスなどあったらすいません。
書き上がって推敲待ちのもの、書きかけの続きを少し足せば出せるものは何本か溜まっています。「リョウタ」の方も数本。もう一つの方は、「おっさんが女子にもてる話は読み飽きた」という世の流れがあるらしいので一旦ストップ。ああいうのって、わかっていてもドヤ顔で大っぴらに表明するもんじゃないと思うよ。あれはダメ、これはダメと制約をつけていくと、素人作家がいなくなってしまう。

というのもどこかで小説ネタにしてやろうと考えております、という愚痴でした。