29. 伏線の日。前編

 12月某日、教えていた医師研修生の研究所での任期が終わり、医局に帰るということでこじんまりとした飲み会を開いた。21時頃解散となり、ほろよい気分で駅前を歩いていたとき、マツキヨのシャッターの前に机を出している、占いの婆さんが手招きしていることに気がついた。

「お金ならないよ。飲んじゃったし」
「いいよ。ちょっとおいで。実はな…」

婆さんいわく、次の2月の20日。12年に1度の"伏線の日"に当たる、と言うのだ。どういう意味か聞いたが「映画や本であるだろ。あの伏線だ」としか言わなかった。

伏線と言われて思いつくのは「警報装置のところにガムを付けておくと、しばらく鳴らないんだ」と言われて、少したってから警報装置を鳴らさずに脱出しなければならないとか、「ワシのこの注射はインシュリンだから、普通の人に打つとショックでぶっ倒れるんじゃ」と言われ、暴漢に追い詰められた時、なぜか手元にその注射が有る、とかいうものであろう。

伏線というのは、「張る」というくらいなので、地面に張った紐なのであろう。見えないように有るんだから伏線なのだが、映画や小説と言われると、明らかに見えるように出てくるものだ。

前日の2月19日の夜は、それを思い出してなかなか寝付けなかった。夜のうちに大地震が来るかもしれないと、荷物を用意し、すぐに着替えられるよう枕元において就寝した。バッテリーが無くなるのが怖いので、寝付く前に眺めるスマホは、SIMの入っていない昔の端末にした。それだけ用意したが、夜中になにか気づくことはなかった。

朝顔を洗い、テレビを眺めながらの朝食。妻に瓶、缶、ペットボトルのゴミ出しを頼まれて家を出る。なにもない。ゴミを捨てようと向かった集積所で、100円玉が落ちている。こういうものは回りものなので、ありがたく頂いて、駅に向かう。

O駅で乗り換え前に、コンビニで昼食の購入。電子マネーでシャリーンとワオーンと会計しようとしたところ、ブーブーとエラー。残高不足である。
「いくら?」
「82円の不足です」
あっ、と気づいて、先ほど拾った100円玉で支払う。おお、伏線回収。

一度気がつくと、世の中のすべてが伏線に見え始める。しかし、そうそう変わったことが起こらないのが現実だ。誰か可愛い女性が、目の前でハンカチでも落とさないかと駅内を歩くも、全くそんなことはない。意識したら負けなのだ、と言い聞かせ、乗り換えた電車の中では、座っていつもどおり本を、と言っても電子書籍を開く。楽に読める樋口有介でも読もう。koboやkindleで0円なのにちゃんとした小説なのでありがたい。

あと2駅、というところで、突然隣からちょんちょんと突かれた。ぎょっとしてみると、女子高生が2人クスクス笑いながらこちらを見ている。沿線の進学校と言われている制服だ。

ガリガリのおかっぱの子と、奥に175cmはあろうかというがっちり体型の両分けおさげの女子高生。イヤホンを外すと、ガリガリのガリ子さんが、「…あのーお」と声をかけてきた。
「はい?」
"い"にアクセントを付けてしまった。ちょっと今のは怖かったかな?

「これって、ネットなんですか?」
彼女は私の電子書籍koboを指差している。ネット?どういうことだ?

「あの、えっと、ネットにつないで見てるんですか?」
「いや、ネットにはつながってないけど」
なるほど、スマホか何かと思っているらしい。

「ええっ?じゃあどうやって表示してるんです?」
「えーと、普通にこの中に保存されてる」
「てことは、中に入ってるのを買うんですか?」
「いや、ネットから落として保存する…例えば…ほらこれ、『こち亀』」
「ぅえー!?すっげ。やっべ。普通に読めるー」
「まじでー、漫画とかウケルー」
「これとか、あれじゃね」

2人は突然、不思議な言語を話し出し、盛り上がっている。最近の高校生は、ウチワでしゃべる時は我々の知らない人種になる。男子女子問わず、高校生達の話している言葉が、聞こえていても何語なのか理解できなくなってきた。英語みたいなスペイン語みたいな。使用している周波数域が違うのだろうか。ウチの娘もいつかこうなるんだろうか。そうこうしているうちに、こちらは降りる駅である。

「えーと、もう降りるんで、また今度でいい?」
「あ、すいません」

女子高生たちが日本人に戻った。相変わらずクスクス笑っている。

(つづく)