73. 誰かの役にたっていたかもしれない話、その2 (前編/2回)。


(その1 https://note.com/tikuo/n/n3346da0219d3 ※ぜんぜん違う話)

 世の中、他人と普通に、何気なく接していたことによって、相手の精神状態を維持させ、無意識に問題を緩和していることがある。

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 これは10年以上前の話である。とある国内学会会場のロビーで、M教授と、当時の先輩の八潮さんとコーヒーを飲んでいた。M教授は、朝一番のレクチャーに招待されて担当し、学会員でもないので知り合いもいなかった。私はM教授の研究室を卒業して3年、八潮さんも他の研究室に移って6年になっていた。

「やっぱりガラガラやったなー。聞きに来てくれてよかったわー」
会場外の窓際のソファに座り、M教授はそれなりに満足そうである。

「この学会、Yセンセに呼ばれて講演したけど、いつもどんな感じなん?」
「えーっと、私もまだ2年目なんでよくわからんですけど、お医者さんの学会って感じですか」
「そうそう。あんまり議論がなくて、発表して終わりって感じでかねー。あと、取り巻きが席を埋めたり」
八潮さんは、かれこれ5年ほど参加しているらしい。続けてM教授へ聞く。

「ところで、H君に聞いたんですけど、教授、ここ1年、大変だったんですってね?」
「そうそう、富岡さんの話なー」

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富岡さんは、私が博士課程3年の時に入ってきた、2つ下の学年の女性だ。同じO大理学部修士修了後に理学部M教授の部屋に入るにあたって、わざわざ医学部博士4年コースを受験した上で入り直してきたので、少し変わっていた。理学部でもかなり辺境であったM教授の研究室を、理学部で有名な美人学生が志望したという話で、一時期は話題になった。私達も美人と聞いて期待したが、線の細い、"シュッとした" 普通の女の子だった。

富岡さんの席は、私の実験台の隣の席になった。ポスドクの人たちには「いいなあ」とうらやまれたが、入ってきた時点で、研究所の一つ上階に入った同級生のスポーツマン男子K君と付き合っており、それを追って同じ研究所に入ってきた、という噂は浸透していた。

富岡さんの研究は、M教授の教室での一番スタンダードなもので、実験量と力技が必要な内容であった。実験の指導は、助手(現在の助教)のTさんに任され、Tさんと2人で午前中は動物室にこもって解剖し、午後はひたすら生化学的な解析を行っていた。

K県出身という富岡さんは酒にはめっぽう強く、付き合いも非常に良かったが、酒の席では特に何もしゃべらず、助手のTさんが「いやー、富岡さんはすごく実験がうまい。これはすぐに終わりますよー」と絶賛しているのを、静かに聞いていた。

理学博士課程3年だった私は、博士論文用の投稿論文を書きながら、実験台が隣の席であることから、富岡さんとは頻繁に無駄話を交わしていた。K君と休みの日にどこか言った話、弟がいて無茶ばかりする話、使っているノートパソコンは、父親が選んだのでデザインが好きでない話、助手のTさんがものすごく熱くて、疲れてしまうという愚痴など、多岐に渡る。

そんな富岡さんは、助手Tさんの予言通り、1年が終わる頃には研究データが出揃い、2年になる前にTさんとともに論文を書き始めたのだった。かくいう私は、年末に投稿して、出版社からの返事待ちであった。12月中に受理の返事が来なければ卒業できなかったので、年が明けて1/3年のオーバーが確実となっていた。

「すごいなー、1年で論文書けるなんて」
「そんなことないですうー」
「でも、もう投稿できるんでしょ?」
「Tさんはそう言ってますけど、多分まだもう少し実験が必要だと思うんでぇー」
「でも、早く投稿したほうがええよ。私のはずっと寝かされてて、投稿が12月になったから、卒業が伸びたし」
「いつくらいにデータ出てたんですかー?」
「うーんと、2年の終わりくらい」
「卒業が遅くなるの、怖いですねぇー」
「怖いよー」

実際に私は、両親の退職の年と重なり、学費のあてがわからなくなっていて、実際に先が見通せず、戦々恐々五里霧中だったのだ。

幸い、私の論文は3月に受理されたので、その年の7月に卒業できることが決まった。富岡さんの論文も、その年の10月には受理された。

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私は、卒業が決まった7月から翌年3月まで、就職活動兼、研究継続ということでM研究室に置いてもらい、細々と給与をもらいながら研究を行っていた。富岡さんは早くも2本目の論文に向けて、残り3年の研究を精力的に行い始めた。

そんな中、私はたまたま募集していた某研究所の公募に応募したところ、M教授と研究所の所長がもともと知り合いだったことが幸いし、8月の半ばには就職が決まった。

私の就職が決まったことや、富岡さんの論文作成、受理など、その年にめでたいことが重なったので、残りの半年で、研究室旅行は2回、飲み会は10回くらい行った。今から考えるとやりすぎに感じるが、参加はもちろん自由で、強制力はなかった。さらに急に立案されても誰も反対しなかったし、積極的に参加していた。そういう研究室だったのは、M教授の魅力に基づいていたものだろう。

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そして、卒業、就職して1年。ふとある試薬のメーカーを知りたくて、M研究室のポスドクCさんに連絡を入れた。穏やかでお酒の好きな既婚女性だ。最初はメールで連絡をとったのだが、返信には謎の一文が付いていた。

「富岡さんにも連絡してあげてください。」

(つづく)