46. 誰かの役にたっていたかもしれない話。その1。

 小学校の頃、私はかなり多くの、おそらく8割方の同級生から嫌われていた。自分の記憶というものは、ある程度都合よく改ざんされてしまうため、うっすらと「いじめられていた」というような記憶になっていた時期もあったが、今考えるとそこまでではない。日本にいる大人の80%くらいは、「過去にいじめられていた経験がある」と答えるだろうが、それは記憶の改竄である。当事者の私がいうのだから間違いない。

すべての原因は、優秀な兄である。成績はもちろん、ピアノを弾きこなし、読書感想文はもれなく金賞、図工で書いた絵は2枚に1枚は優秀作品として展示された。足は早く(小学校のモテ基準として最重要項目)、野球をやらせても、サッカーをやらせても一流。もちろん顔も良く、兄が卒業したあとに、小学校時に同級生だったと思われる中学生に捕まって「お兄さんにチョコを渡してください」なんて言われたことがある。兄は県外の進学校に通っていたのだ。ただひとつ、いまだに私が勝っているのは身長くらいである。

さて、小学校1年から5年位まで、小学校内でも有名な優秀な兄というプレッシャーに打ち勝とうと思っていたからか、とにかく目立とうとする子供だった。声はでかく、やたらと委員に立候補したりした。しかし、実力は兄には遠く及ばず、ピアノは楽譜通りには弾けたので、小学校5年まで音楽会では歌わずにいたことと、小学校3年位から、狙わずとも絵画は優秀賞的なものを何度かもらった以外、成績は中の上、字は汚く運動は中の下、顔は中の下。チョコレートなんか6年間、一度も貰うことがなく、小学校を終えた。

小学校5年くらい、兄の影がようやく小学校から消えた辺りで、目立とうとする生き方は、私には向いてないと確信し、さっと目立たない、立ち位置を明らかにしない、平均的なキャラにフォームチェンジした。しかし時は既に遅し。今風に言えば「あいつウザくね?」と目をつけられてしまった人間の評価など、そう簡単に覆らないのだ。すでに学年の8割には嫌われていたため、あと2割に相手にしてもらっていた。

そう、2割の同級生は仲が良かった。そういう人は幸いである。それは8割にいじめられていたわけではない。いいね。試験に出るからね。忘れるな。

鍵っ子で、帰っても家に誰もいない、8割嫌われ者の私を、同級生のS、K、M、T君といったみんなは、暖かく受け入れてくれて、毎日遊びに呼んでくれたり、外で遊んでくれたりしたのだった。ただ、そういう人たちには、スポーツ万能なクラスの中心になるような連中はいない。しかし、マイノリティにはマイノリティの生き方があることを教えてくれた。S君はおやつ代わりに酒粕を焼いて食べていたり、当時知る人ぞ知るアニメ雑誌を見せてくれたりした。K君の家ではK兄がTears for Fearsのラジオ録音時に声をかけてしまい、怒られたりしたものだ。今考えても、なんで当時のラジオの録音で、外部マイクが生きてるのかわからない。セッティングがおかしいやろ。

また、ちょっと太めのT君は、小学校で私達に、当時の同級生たちは誰も知らなかった『究極超人あ~る』『アウトランダース』なんていう漫画を楽しそうに教えてくれた。いまだに『究極超人あ~る』は愛読書だ。T君は、あんなに楽しそうに毎日小学校に通っていたのに、中学に入ってすぐに登校拒否になったんだそうだ。ひょっとしたらあのとき…。

前置きが長すぎたが、今回はそういう話である。

*

 大学の研究室は4回生の春から、そう思っていた時期もありました。大学3年の正月、帰省して家でゴロゴロしていた1月6日。突然電話がかかってきた。当然携帯電話など無いから、実家にだ。電話に出たら、同級生の高梁からだった。

「おい、なにしとん。明後日8日、研究室決めやぞ。来んと人気ないとこに入れられるぞ」
「えっ?そんなん言われてなかったやん」
「学生実験の時のメンバーに、電話で回ってきたんじゃ。お前んとこかからん言われた」
「あ…ありがとう。わかった。行く」

そんなこんなで、慌てて翌日O県に戻り、何事もなかったかのように研究室の選択の集まりに顔を出した。驚いたことに、全員来ていた。

研究室は成績順で決められると言われていたが、そんなことはなく、希望者が手を上げて、担当教授が「ちょっと多いな」と言うと、ジャンケンで人数が減らされるというものだった。私の希望した、細菌を使う研究室は人気が高く、6人もの希望者がおり、6人ともが決定した。高梁もその一人であった。ちなみに高梁は、スポーツ万能な小学校モテタイプである。関係ない。

2月。学生実験のコースが終了し、実験のレポートを出した足で研究室に向かうのがお決まりである。小学校5年から、筋金入りどころか鉄筋コンクリートばりに鍛えた、目立たないキャラの私も、ぞろぞろと6人目の5人目でついていく。最後ってのは目立つんだよね。自己紹介ではオチを言わされるし。

研究室の助手(現在でいう助教。めんどくさいよな、この名称変更)が、部屋の案内をしてくれる。

「ほんで、ここがメインの実験室ね。おいY。えーと、K。それから君、名前なんやったけな」
「毎度まいど、何いってんですか、Nですやん」
「あー、そうそう、Nな。ごめんごめん」
定番のネタらしい。

助教。
「実験台はね、ここは大学院生と組んでやってもらうから、どこかの横に入るんやわ。それから、これから行くけど、2階にも小さい部屋が1つあって、そこも2人くらいかなあ」
「机(事務机のこと)は、どうなるんですか?」
「そうねー、机は足らんから、2~3人で1つかなあ。どうせコンピューターも持ってへんやろ?荷物置いて、書き物するときくらいしか使わんしなあ」
「あの…あの、隣の席はなんですか?」

その席は、Macの一体型マシン Performa がぽつんと置かれているだけで、空きであるように見えた。
「あー…あそこね。渋川いう修士の子がいたんやけど、2年前から来てへんねん」
「登校拒否ですか?」
「正月に実家に帰って、そのまま休学するって言って、そのままやな」

博士課程のYさん。
「ちょっとなー、助教授(今で言う准教)と合わんかってな、病んどったな」
「修士の同級生とも合わなさそうやったしなー」
と、助手。

「え?登校拒否になるくらい病んだりするんです?」
研究室を知らない新人グループは、戦々恐々である。
「いや、渋川くらいかな」
「何言ってんすか、過去にもいたでしょう。Tとか」
「いや、あいつは、親の店を継ぐって言うてやめただけやで」

そんな渋川さんであるが、翌年度の夏から研究室に復帰したのである。

*

研究室に入って4ヶ月。猛暑の朝、といっても、昼夜逆転をしていたので、12時前に研究室に行くと、学生の共通デスクのとなりに、見慣れぬ人が座っていた。

「こ、こんにちは」
「あ。こんにちは。渋川です。4回生?」
「あ、4回の武井です。あの、渋川さんですか」
「あ、ま、まあね」

びっくりしたのは、女性だったということである。しかも身長込みでごっつい感じの。勝手に細い男性をイメージしていたのだった。

「で、みんなから、何聞いたん?」
「えーと、2年前の正月から来てないっていうのと、結構病んでたとか」
「うーん、病んでたかもしれんけど、私やなくて親が具合悪くて」
「へえ。で、今、何年生なんです?」
「うちか?M2(修士2年)」
「あと、関西ですよね」
「あー、実家はK府」
「あー、同じ同じ」
「え、そうなん?どの辺?」
「U市」
「ウチは、F市やからな。北の方やわ」

なんとまあ、よく喋る人であった。この「U市」「F市」は、このあとずっとネタになる。
「あんた、K言うても、U市なんか外れやんか。K市やないやん」
「いやいや、F市もK市から山越えといけませんやん」
それ以外も万事このノリであった。

研究室でも、一番ノリがよく、お調子者だった修士のNさんは、渋川さんが2年先輩ということもあって、しばらく腫れ物を触るように接していた。

「武井ちゃん、なんか、渋川さんと仲ええな」
「いや、普通ですけど?」
「なんや君ら、しゃべってんの見てたら漫才みたいやん」
「いちお、関西人同士ですしね」
「へーん」
「Nさんかて、兵庫県ちゃいますのん?」
「いや、兵庫言うたかて、めっちゃ西の方やしな」
「あんまり関係ないでしょ、それ」

それから、土曜も日曜も、とりあえず街なかを放浪する前に、前日の片付けと翌日の仕込みに研究室に寄ると、渋川さんは少しの実験と修士論文の執筆のため、必ず研究室に滞在していた。そこでなにがしかの会話を交わしたり、Macのトラブルを解決したりした。日中の放浪後に寄ると、渋川さんは大概いなくなっていた。

なお、土日は、博士課程だが学位を取らず就職したYさんが来ることが多く、私はその実験の準備と片づけおよび簡単な方針の打ち合わせをしてもらっていた。渋川さんも、土日は博士課程のIさんやYさんに、論文執筆の指導をしてもらっていたようであった。

Yさんら、博士課程の人たちは口を揃えて言うのだ。
「渋川、休む前とぜんぜん違う。めっちゃ明るくなった」
「なんか、吹っ切れたみたいにな」
「武井ちゃん来ないとさびしそうやで」

いやいや、なんでやねん。

*

次の年の3月。博士課程のIさん、渋川さんは無事学位を取得して修了。我々4回生も卒業。そのまま進学する2人を残して、就職または別の大学院へと進路が決まった。

卒業式の日、Iさんと渋川さんは、師弟関係ということで、スーツと袴姿で記念写真を撮った。3月25日。すでにO県では桜が満開であった。

その後は、学部の修了、卒業生を近くのホテルに集めて懇親会である。それまで2時間ほどの待ち時間が有った。

その時間を使って、研究室のPowermac 6100で、まだ卒論の書き直しをしていた私に、渋川さんが声をかけてきた。

「あの、これまで、ありがとね」
「え、いえいえ」
「私、明日には実家に戻るし、懇親会も出ないで荷物を片付けないといけないから」
「あ…そうなんですか。じゃあ、これでお別れなんですか。寂しいですね」
「うん、で、これ。お世話になったからね」
「あ、ありがとうございます」
「じゃあね。実家を手伝うし、多分もう会わないけど」

渋川さんは、私にチョコをくれた。