107. 居眠りする少女。

 お盆である。お盆というと、8月の15日くらいと相場は決まっているが、これを常識としないほうが良い。というのも、関西から関東に引っ越してきてしばらく、前に住んでいたアパートの向かいのおじいさんに「やあ、もうお盆は済んだの?実家戻ったの?」と言われ、目をパチクリしてしまったことがある。聞かれた日は7月20日。お盆までまだ1ヶ月である。しかし調べてみると、東京を中心に関東の一部では、お盆は7月の14日前後なのだそうだ。よく考えてみると、京都の祇園祭は7月15日。あれは関東の盆に合わせているのかしらん?しかし、大文字は8月16日に「送り火」だから、お盆の行事なんだよなと思う。

それはそうと、私は関東に来てからはお盆に実家に帰ることはない。私も妻も実家は関西である。お盆時期に新幹線のチケットを取ることは難しく、仮に無理して帰ってもやることもない。私も妻も、実家や実家の周辺には、仏壇もなければ墓もないのだ。私の親会社の営業などは、取引先が休みなので8月11日あたりから部署ごと休みを取っているが、こちらは生きた細胞やネズミ、昆虫を飼っているもんだから、休むわけには行かない。だったら正月のように会社も公休にしてくれればいいものを、年休消化に当てられるんだから、休む意味もないのだ。

だいたい、2021年からか、8月の11日あたりに「山の日」という祝日を制定したのも、狙いがよくわからない。これまでなら出入りの業者は8月12から17日くらいまでの休みが当たり前だったのが、10日からになって、丸1週間、注文が出せないのである。盆休みというのは結局いつからなのだ?「15、16、17と休みを」と言われて「夢は夜ひらくし」と頭の中で浮かんで吹き出しそうになる伝統は、一体どこに行ってしまったのだ。

などと考えながら、ターミナル駅で乗り換えの始発電車に乗り込んだ。さすがに8月16日であり、空いている。下り電車ということで、普段から座って片方は人がいないのが普通なのであるが、両側が空いている。

しかし、隣の車両は賑やかだ。見てみると、紺色のポロシャツに短パン、体の半分くらいはありそうなでかいリュックを背負った男女の中学か高校生が、ドアの前にこれまた大きな荷物を広げて騒いでいた。そうなのだ、S県で盆といえば、部活の交流試合だか交流練習だかが盛んなのだ。ターミナル駅の乗り換え時にも、大勢のジャージ集団とすれ違ったり、O駅Mの木の前には朝の7時前だというのに、20人ほどの短パン日焼けの若者たちがたむろしているのである。

お盆に地元で部活の試合や練習があれば、その親も帰省などはできないわけだ。更には、引率の教師も休みは取れない。お盆には休めばいいだろうがと思うが、こちらも普通に出勤しており、人のことは言えない。

騒ぐ中学生が、この車両でなくてよかったと思い、文庫本を開く。この夏は古典SF小説の積読を崩していこうと決意したので、ジュール・ヴェルヌ『地底旅行』である。「私」であるところのアクセルの叔父、リーデンブロックがエキセントリックで楽しく、古典SFというよりは、青少年向けのジュブナイルを読んでいるような感覚だ。まだスネッフェルス山に着き、馬に逃げられたところであるが、叔父さんはどこかで事故に巻き込まれたりするのだろうか?などと不謹慎な想像をしながら読み進めた。イヤホンから流れるBGMはZardnicのブレイクビーツmixだ。

1つ目の駅で、隣に座っていたおじさんがいなくなった。これでガラガラであるのだが、ふと前を見ると3人が肩を寄せ合って座っている。こんなに空いているのになぜ?私嫌われてます?と、いらぬ自己嫌悪まで発生させてしまいそうになった。

前の席には、50代くらいのグレーのワンピース女性、紺色の制服を着た女子高生、40~50代の水色ブラウスの女性という並びだ。両側の女性はしかめっ面をしながらスマホを眺めており、間に挟まれた女子高生は目をつぶって寝ている。おそらく女子高生は受験生なのであろう。夜遅くまで勉強し、今日は7時過ぎから学校で補講なのだろう。あー、教師の人も休めなくて大変、と教師側に感情移入してしまう年齢になってしまった。

2駅目を出る辺りから、女子高生の寝方がかなり派手になってきた。向かって右側の水色ブラウス女性の方に、完全に体重がかかっている。水色ブラウス女性はしかめっ面をしてはいるが、迷惑だと思っているのか、老眼でスマホの文字が読みにくいのか判断は難しい。だからといって、頭を乗せられている肩を動かしたり、よその席に移ったりということもしない。文庫本では、リーデンブロック叔父が水の流れを見つけ、ハンスが岩をぶち抜いて”ハンス泉”を見つけたところであるが、前の女子高生と水色ブラウス女性の駆け引きが気になって、頭に入ってこないのである。

本の内容はそっちのけで、私だったらどうだろうなと考える。自分が寝るときはこういうことがないように可能な限り前の方に頭を垂れる。よほど疲れているときは窓に頭が当たるのを覚悟して、後ろにいって、カーブなどで頭を窓に強打して目がさめることがある。あの窓に付いた頭の脂、気持ち悪いよね。新幹線や飛行機などでは、前重心で居眠りできないため、背もたれに頭を付けていると、頭がつい横にいってしまって隣の席のおじさんにもたれてしまうことがある。いかんいかんと申し訳ない気分になって、そこから必死に起きている。

在来線でもたれかかられるのは、経験上女性が多い。在来線は進行方向90度の角度に揺れるため、あの振動の心地よさは、なぜ製品化しないのかが不思議なほどだ。私がもたれかかられた場合は、殆どの場合肩を少し前に出し、それ以上倒れてこられないように維持をする。以前に酔っ払いに方をもたせかけていた人が、揺れた拍子に股間に盛大に嘔吐をされたという話を聞いてから、動かさないようにするのがいいだろう。まあ、酔っぱらいや明らかに気分の悪そうな人の場合は席を移動するが。そして、駅につく度に、少し力を入れて押し戻す。それで乗り過ごしをしないのであれば協力して差し上げたいのだ。

3駅目についた。女子高生は停車とともに一旦真ん中の位置に戻った。しかし目を開けることはない。向かって右の水色ブラウスの人は少しホッとした表情になっている。その気持、よくわかります。電車のドアが締まり動き始めると、加速の慣性によって、女子高生は向かって左のグレーワンピースの女性に持たれる形になった。おいおい。小説の方は、「徒歩で1200km歩いた」などと書かれており、こちらもおいおいである。多少のショートカットがあるにしても、1200kmを徒歩で1週間程度で歩けるわけがあるか。昔はマイル表示で子供はだまされたのかもしれないが、それはないだろうと思ってしまう。だいたい、この人達はトイレはどうしてるんだ?

全然話の内容が頭に入ってこない小説はさておき、居眠り女子高生である。もたれかかられているグレーワンピース女性も、少し嫌そうな顔をしながらガラガラの座席を移動することはない。もたれかかられている感じ、しかも若い子ということで、少しは嬉しいんじゃないかという気はする。私がもたれかかっていったら、一瞬で席を移動されるだろうなと思う。

グレーのワンピース女性は、少し前傾の姿勢になった。女子高生の頭はワンピース女性の背中に乗る感じになる。ワンピース女性は、こちらも老眼かもしれないしかめっ面で、ひたすらスマホをタッチしまくっている。いやああの体制、ふとした拍子に背中で顔を潰してしまうのではないかという不安を感じるが、実際には額くらいまでしかかかっていないので、軽く頭を打つくらいで大丈夫なのだろう。もたれられている側にも、体にペットの体重がかかっているような満足感のようなものがあるのではないかと思う。もたれてくる相手がオッサンでなければね。

電車は橋の前の急カーブに差し掛かると、それに反応して女子高生の頭は少し縦に戻ったが、残念ながら起きることはなく、またワンピース女性の方の後ろあたりに頭を乗せた状態である。呼んでいる小説は、もうどうでも良くなったし、次の駅で降りなければならないのだ。橋を超えればすぐに目的の駅に入る。あの両側の女性、女子高生をもたれさせなければいけないような義務感を感じているのではないか。この3人がどこで降りるのかはわからないが、彼らの中に妙な連帯感を感じた朝だ。