100. あがりのある人生。

 その夜、私は連載していたWeb小説の第100回、最終回の原稿をオンラインメモアプリで書き上げると、大きく伸びをしてコンピューターをシャットダウンした。『理学部、へんな教授』という話で、4回生で研究室に配属された、宮田諒太という青年の視点から、"へんな教授"こと仙田教授、博士課程2年の小太りの三沢くん、実験補助の水野さんが、研究室で起こるいろいろなおかしなことを話すことが中心となった話だ。「ぜんいん、『み』ですね」の書き出しから、100作で最終回にしようと当初から計画しており、書き始めの時点から最終回ではどうしたいか考えていた。

実のところ、Web連載という形は取ってはいるものの、誰に依頼されたわけでもなく、単に自己満足で書き散らかしているだけの小説もどきである。もちろん、報酬も投げ銭もない。「いいね」は99本の短編パートに、約2年半で226個。1本あたり、1つから3つ程度で、ほとんど誰にも読まれていないことがよく分かる。それでも、その中の2本で「続きを書いてください」とコメントを貰ったときには、2人のSNSのアカウントを探してお礼を言いに行きたくなった。実際にはそんなことはせず、それぞれのコメントを貰ってから2回分を深夜1時過ぎまでかかって一気に書きあげた。我ながら、物書きのモチベーションなんて、簡単に上がるもんである。

これで、『理学部、へんな教授』は ”あがり” である。この勢いで別の作品を書くためには、もう少し構想を練る時間が必要がある。

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階下に降り、妻と子供が先に寝ている部屋へ静かにもぐりこんだ。暗闇の中でスマホを眺めつつ考える。そもそも”あがり”というのは何なんだろうか?私の場合は仕事では研究を行っているので、以下のようなものであろう。

教授になること。
社長になること。
所属長になること。
本を書くこと。

しかし我々の世代よりも上の世代、今55~65歳の人口が多く、年功序列的に詰まっていてほとんどなれない。さらに定年も年々伸びているので、今の所65歳。そこで退職しても年金がもらえないと、70歳までは非常勤という形で雑用を押し付けられてダラダラと過ごすのが普通になっている。
そういう意味でも、上の位、所属長や社長に上がるというのは全く望んでおらず、むしろなりたくないのだ。

今の職場の場合、上司に当たるのが、すでに退職後にお飾りで据えられた研究所長である。その須賀所長が仕事ができなくなるか、亡くなった時点で、我が社のお荷物である研究所自体は解散となるのだろう。研究所なんか、株価にちょこっと影響を与えることは有っても、全く利益をあげることはないどころか、むしろ毎年大赤字であるため、毎度毎度株主総会で怒られているという噂である。

もう少し近いゴール、あがりはなんだろう。論文を出すことだろうか。こちらも、思ったようになかなかあがれない。昔のすごろくで、ピッタリ残りの2を出さないと、余り分戻らされる感じだ。

少なくとも10年前に出していたレベルの研究内容では、間違いなく論文は通らなくなった。我々も行っている創薬、つまり薬を作るというような、医学に関わる論文は重用されて、インパクトファクターという重要度スコアが年々上がると同時に、要求されるレベルが格段に上がっている。一方で、理論系や生物化学の基本的な原理というあたりは、論文のスコアが10年で目に見えて下がった。

おかげで、これでいいかと投稿はしてみるものの、やれ「動物実験が足りない」だの「遺伝子発現解析が云々」と、時間のかかるやり直しを指示され、残り2のところで6を出してしまって、残り4にまで戻されるという具合だ。間違って20面体サイコロを使ってしまったんじゃないか?と思うほど戻らされることすらある。さらに場合によっては、入念に練られた嫌がらせによって、見た目はマイルドなコメントなのに実質「ふりだしへ戻れ」というようなリクエストも来ることがある。この場合は諦めるのである。

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これまでの人生における"あがり"は何だったんだろうか。
漫画やアニメのように、運動会や体育祭へ向けて特訓をしたこともない。音楽会や文化祭を目標にしたこともない。あがりに相当するイベントは、やはり受験であろう。

小学校のときに、ちょっと人より強い記憶力と、連立方程式というチート能力を使って、補欠ではあるが進学校の受験に成功した。しかし、そこで"あがり"と思ってしまったからか、結局中高6年間を落ちこぼれとして過ごすことになった。年に5~6回の校内テストが短期のあがりポイントではあったが、真面目にやらなかったため、30回ほどは、事後に親に怒られることと、教師に冷たい目で見られることを耐えるということでなんとか切り抜けた。

小学校6年から大学まで、試験終わりをあがりと思い込もうとしたが、上がっても次の試験や受験がくるというだけだということを学んだだけであった。

大学の研究室に入ってからは、なぜかプレゼンは他人よりも強いということを思い知るとともに、卒論、修論が一応のあがりであった。卒業にしろ修士にしろ、論文というものは正解がわからない上、「考察」の意味を理解できぬまま、こんなもんでええんかしら?と迫りくる締切にただただ怯える日々であった。修論のときには教授からは「まだ見なあかんの?」と言われ、同級生たちが徹夜でヒイヒイ言っているのを横目に、研究室の引っ越しの準備をしていたが、できたという達成感よりはあれで良いのかという不安が強かった。博士論文は、妙な時期から書き始めたうえ、教授も「好きに出せばいい」とプレッシャーもかからず、締め切りが曖昧なままぼんやりと過ぎていったのだった。その後の就職はむしろスタートだろう。就職がゴールであがりだとしたら、いくらなんでも辛すぎる。まあ、私の場合は就職もなんとなく、その後の結婚もなんとなくで、あがりには程遠い人生である。

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小説100本というと思い出す人がいる。エム氏という、大阪のFM802というFM局で一時期バンパーステッカーという、車に貼るステッカーのイラストを描いていた人だ。当時ネットで親しくしていた写真関係の人の知り合いが海外留学するため、その壮行会の飲み会に、エム氏は知り合いの会社関係者で来ていた。エム氏は、その飲み会の1週間前にFM802の新人イラストレーターコンテストで最優秀賞を獲得、デビューが決定されたところだった。飲み会でも色んな人がエム氏の周りに群がっていた。

私はというと、大学院で研究がうまく行っていなかった時期であり、気分転換のつもりで混ぜてもらったのだが、デザインギョーカイの飲み会というノリが余り肌に合わなかった。「コブクロなんか、その橋の上でこないだまで歌っとったのになー」なんていう会話を覚えている。

ギョーカイ関係者が次々と二次会へ向かう中、次の日に仕事がある私、エム氏、女の子が一人が同じ方向の電車に乗って帰ることになった。

「エムさんはー、休みの日とかー、どうしてんですかー?」
うっすらと色目を使ってくる女の子に、エム氏はバッサリという。

「イラスト描いてる。他のことをしてる時間はない」

「えー、彼女とか作らないんですかー?」
「今は仕事が彼女やから、それどころやないね」
キャップを斜めにかぶり、格好はラフだが、なんとなく作りの良さそうな、新しそうなジャケットをはだけながら、バサバサと蹴散らしていく。しかし、その素っ気なさも女性から見たらかっこよく見えるのだろうということは想像できる。

「じゃ、私ここなんでー降りますねー」
十三から2駅ほどで、女の子は降りていった。

「あ、エムさんは、どこなんです?」
間が持たないので、とりあえず話しかける。

「オレ?オレはT駅」
「ああ、私は終点なんで」
「君さー、何関係?で今日来てたん?」
「あー、えーと、Hさんとネットで3年位知り合いで、写真の露店とか一緒にやってて」
「へー、写真とか売れんのけ?」
「売れないっすね。でも他人のを見てたり、反応を見ていると、構図や色のウケ方ってのがわかるんで」
「へー、分析してんねんや」
「あと、ちょっとだけイラストも描いてます」
一応、これからのプロにアピールしておこうかと、下心を出してしまった。

「えー何?今ある?ポートフォリオとか」
「ポ…?いや、絵葉書になってるのなら少し」
カバンをあさり、イラストのカラーコピーの絵葉書を出した。

「ふーん、悪くない。でももっとさー、勢いっての、いるよね。プロになりたいなら」
「は、はい」
「オレさー、コンテスト出したとき、半年くらい、ひたすら描きまくったね。1日100枚くらい。早いのは5分もかからない」
「へえ」
「そうするとさー、3日くらいでネタがきれんの。そこからが勝負っていうか」
プロになるというのを知っているからかもしれないが、言葉の重みというよりは、切れ味の違いを感じる。1日100枚描いたことはない。写真も1日50枚くらいが限界だった。

「1日100枚を半年やると、もう、義務なんよね。そうすると、同じものを描こうとするのと、違うものを描こうとするのが、こうなんていうの、ガーッとぶつかって、バーンって、なにかでてくる」
「へ、へえ」
「でさー、コンテストは通ったんだけど」
そこは随分、あっさりだな。

「コンテストの賞金でさ、服を買いまくったんやわ。オレさー、服とか全然知らんくて、今流行ってるのとか。で、店に行って、流行ってるやつを全部買った。1日20万くらい」
「ああ、で、この服?」
「そうそう。この辺はステューシーかな。まだよう覚えとらんけど。するとさー、そういうええやつって、作りがええ」
「そうですか」
「ええもんは、見とかんとあかんなっていう」
「ふーん」
「あ、オレ次の駅や。じゃあな、100枚死ぬ気で描け、そしたらわかる」

エム氏はそのあと関西では売れっ子になり、FM802だけでなく、店の内装など様々なところでイラストを目にすることになった。ライブペインティング会場でも、話しかけるような雰囲気ではなく、絵の具が飛び散った白いTシャツとステューシーのジーンズ、トレードマークのキャップを身につけて、殴りつけるような、しかし計算された絵を描いていた。

それから20年。エム氏のイラストは見なくなり、彼が今どうしているのかもわからない。かれは"あがり"に到達できたのだろうか。ただ、私の中に「100作死ぬ気で書け」というエム氏の別れ際の言葉がずっと引っかかっている。いま使っているリュックには、エム氏のデザインのFM局のカンバッヂがついている。2つ持っていたうちの1つはなくしてしまった。

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我ながら、小説は見様見真似の手探りで100本書くことで、小説というものがどうやって組み立てられているか、作り方の道筋が少しは理解できた。こうしたほうが良いというポイントも、推敲時に客観的に見ることによって修正できるようになった。試行錯誤で始めた最初よりも、効率よく良いものが今なら書ける。だから、100本で終われるわけがない。

仕事だって、昇進や受賞といった目標よりも、毎日しんどくない程度で、コンスタントに結果を出し続けることが性に合っている。年々効率は上がってきていて、ほとんどの場合、同じ時間に1日の仕事を終らせられるようになった。ただ、無理をすると一気に休日が潰れ、深夜に食い込んでしまう。計画と配分を考えられるようになったので、休日出勤も残業も回避している。これを続けるのもなかなかに難しい。

維持をすること。つまり、"あがり"がないというのもいいものだ。これがまた、大変なのだ。

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(まだつづくよ)