87. あの日見た花の名前を覚えていない。

 O駅から、リサイクルショップ2軒とブックオフを目指して歩き始めた5月連休の昼下がり。団地の脇を通り過ぎた。この団地の横にある道では、数年前に包丁を振り回した暴漢に、警察が発砲して暴漢が死亡した事件があったことを記憶している。

約15mのその道を通り過ぎようとした際、ふと甘い匂いを感じたのである。少しバニラの入ったような甘い香り。クチナシに似ているが、もう少し爽やかに感じる。見上げると、頭上には白い花が満開であった。そして、昨年なったと思われる夏ミカンが、いくつもぶら下がっていた。そういえば、家の庭の角に目隠しがわりに植えた花ユズも、今朝は白い花をたくさんつけていた。花ユズというだけあり、花ばかり咲くもまったく実はならない。西の端に植えたのが良くなかったのかもしれない。あれも、こんなに甘い匂いがしていたのだろうか。

夏ミカンは、実家の引っ越す前に植えていた。2階建ての家の屋根より背が高くなり、毎年脚立で剪定するのだが、ミカン科の宿命である、鋭いトゲに悩まされるうえ、植えて20年間はまったく実がならなかった。20年後に突如、1本の木からダンボールで5~6箱分の実がなるようになったが、今度は酸っぱすぎて誰も食べない始末であった。

この団地の夏ミカンも似たようなものであろう。翌年まで実をならしたままにしておくと、少し甘くなると聞いたが、そこまでして食べたいものでもない。ましてや団地であるので、木の所有権も難しいのであろう。

半月ほど前は、この団地の植え込みのドウダンツツジが、小さなスズラン様の花を満開にしており、そのときも少し甘い匂いがしたものである。

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家を購入してから、花で季節を知ることが多くなった。小学校の頃は、兄が夏の自由研究で、強制的に植物採集をやらされており、その手伝いはしていたものの、植物の図鑑に興味を持つことがなかったため、ちゃんと覚えていたのは "ガマ" と "ヨウシュヤマゴボウ" くらいである。両方とも押し花にすると、厚みがあるうえに、その後に穂がバラバラになったり、実が潰れて青いシミを作るなど、大変面倒なものであった。

家の狭い庭に植えたのは、花ユズ、キンカン、ピラカンサ、アジサイ、サザンカ、ツバキ。それなりに各季節を彩ってくれるが、それに加えて多年草のハーブや草本の花を妻が買ってきては植えている。朝起きてから庭をまず眺めるのが日課でも有る。初夏にはミカン科に加えて、ピラカンサの花が咲く。ゴールデンウィークを祝うように咲くこの花の匂いが独特で、初めて花が咲いたときには、近所に牛か馬でも来ているのではないかと勘違いしたほど、大型の獣の匂いがするのだ。妻は嫌がったものの、その花を残しておかないと、冬場にきれいな赤い実がならない。ピラカンサの実は、赤い実の中でもさほど美味しくないのか鳥もなかなか食べず、正月付近までは残っている。

サザンカは冬の代名詞だと思っていたが、11月までにほとんど咲き終わってしまう。冬の終わりに咲くツバキとサザンカは、切り方を間違っているのか、毎年毎年、葉の裏の見えないところで赤い花をつける。

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花と季節感といえば、最たるものはサクラであろう。カワヅザクラが2月、少し空いてオオシマザクラなどが咲き、ソメイヨシノなどのメインのサクラが開花するのは、関東より西では3月の終わりだ。3月末をピークとして、1週間位で終了し、シダレザクラ、ヤマザクラ、ヤエザクラでゴールデンウィークとなる。つまり、4月の第2週の入学式シーズンには、散り終わりかけのソメイヨシノが残っているかいないかということになる。

家を買ってから、花と季節を意識するようになったということは、同時に創作物への違和感を感じるようになったとも言える。小説、映画、漫画、アニメ、その全てにおいて、入学式はサクラが満開で表現されるが、東北の一部くらいしか実現しないのだ。

同様に、秋を表現するために、黄色く色づいたイチョウを描いたり映したりする作品は多いが、イチョウの葉が色づくのは12月の初頭だ。大雑把にいうと、初冬の表現として適切なのである。NHKのとあるドラマで「うだるような真夏の暑さの中、花は可憐に咲いている」と紹介された、セージの種類は、真夏と真冬だけは花が咲かないため、ロケが初夏に行われたことがバレてしまったということもあった。そしてその花だけ、公式ホームページでは紹介されなかった。

その他にも、ヒガンバナは9月の下旬の彼岸のシーズンだし、キンモクセイは10月の初頭に一瞬だけ花をつける。なんてことのない知識だが、一度知ってしまうと、創作物を自然に見られなくなるというのが、植物の知識の怖いところだ。
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5月の連休の最終日。天気が良いことをいいことに、自転車を走らせる。どうせ何も買わないリサイクルショップを軽く冷やかして、古本市場へ向かう。ビデオカメラセットで2000円は安いのだろうか。我が家は妻と私の馴れ初めが、写真での交流だったことも有り、ビデオを撮るという習慣はない。結婚式もビデオ撮影を断ったため、来客時に結婚式の映像を流しては、ひんしゅくを買うということは出来ないのだ。一方で、子供の運動会などでは、デジカメに搭載された動画撮影機能を使って動画を取りつつ、別のデジカメで写真を撮るなどという、アクロバティックなこともやる。動画は動画で、子供派には楽しいらしいのだ。

自転車で踏切の先の角を右折すると、道路に白い花びらが落ちていた。ふと見上げると、木にはサクラにも似た、白い花が下を向いて鈴なりである。匂いはしない。名前は思い出せないが、いつだったか、見たことが有る。

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それは、子供がまだ2歳くらいのときだ。子供をベビーカーに乗せ、赤羽から王寺に向けて歩いていた。道を行く人は、もうTシャツだった。東京都北区の路地裏。ものすごく細い土地に家が建っている。玄関側は道に面しているのに、裏側は家の1階分くらいの高さの崖になっている。どうやら崖の下がゴミ置き場になっているようで、はしごが設置されている。『横断注意』『ピアノ教室』などの色あせたプレートが、崖側の壁に針金で固定されている。

その先だ。長い滑り台のある、斜面の公園。砂場のある広場には、鯉のぼりが泳いでいた。なるほど、ゴールデンウィークだったのだ。夏場は人工的に水を流すのだろう、枯れた水路の脇に、その木は立っていた。それは、1本ではなく、何本も。

青々とした新緑とともに、房になって咲く眩しい白い花は、サクラかリンゴのようである。よく見ると、花びらはそれぞれつながっており、5枚の放射状が多いが、4枚だったり7枚だったりとランダムなようだ。木の周りを見渡すが、表示はない。

「サクラでしょ?」
妻が言う。いや、ちがう。
「ここでお花見にしよっか」
そういうと、荷物からアンパンマンの描かれたパックのジュースを取り出し、子供に渡す。子供はというと、それを受け取ってほぼ一息で全部飲んでしまう。1日にジュースだけで1リットルくらい飲んでいたと思う。

帰宅して、白い花の正体を探ることにした。植物の同定は難しい。"〇〇に似ている"の〇〇部分は、自分の語彙力と直結する。いろんな植物の名前を知らないと、検索すら出来ないのだ。しかし、花を見ているとすこしは楽になる。花の色、時期、花びらの数を入れるだけで、いともたやすく名前を知ることができるようになった。Googleの画像検索のタマモノである。

『白い花 5月 木 花びらが5~6枚』

あっという間に見つかった。『エゴノキ』だった。最も気になっている、花びらの枚数がランダムな点については、案の定変な話を書いている人がいる。いわく、原発事故の影響。言われてみれば、2011年の原発事故後に、巨大なタンポポが生えていると話題になったことが有ったっけな。見てみれば、ほとんどがノゲシであったが。生き物は強く、早々変異体など出来ないのだ。

エゴノキには後日談が有る。
一年後の初夏、K市の公園の隅に、白い花がたくさん咲いている木が有った。お、これは進研ゼミでやったやつだ!えーと、何だっけな…2文字くらい…そうそう、エゴ、エゴノキ。

そう思って木に近づき、付いていた銘板を見て驚愕する。そこに書かれていたのは『ウツギ』。帰宅してインターネットで調べてみると、エゴノキとウツギは見分けが難しい木であるらしく、白い花が下を向いてたくさん咲くという点もよく似ているということである。

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それから4年。
自転車で見上げた先の白い花の名前が思い出せない。

また調べて、また来年になれば忘れる。
それでも調べずにおれないのが、花の名前というものである。