93. 特攻。 (上)

1.

「ねえ吉原さん、蛍光灯の全館交換の見積もりまとめるってやつ、いつになったらできんの?」

朝一で課長の額田に呼び出されたと思ったら、これだ。
「えーと、先週に業者に依頼して、S電機からは来たんですけど…、A電設がまだで…」
「あんのっさあ、この件って、何っ回も言ってるよね、相見積もり2社じゃねえよ、3社だよ。あと、すぐいるって2週間前から言ってない?」
「はあ、」
「はあ、じゃないっての、ほんっっとうに、アナタ、やる気ないでしょ?一応この課の主任でしょ?…ンフ、どうせ、年齢で決まってるだけだけど」
「ええ、まあ…」
「だったらさあ、新入社員の模範にもなるように、チャッチャーっと片付けて、ビシッと持ってきなさいよ、用度の意地を見せなさいよ、管理課に負けますよ。それに…」

私のいる部署は、とある製薬会社の支社の用度課という、物品を調達する役目である。施設の修理等を管轄する管理課と、物品の購買を行う用度課は、上下の言い分、もとい、わがままを処理する立場にもあるためストレスがたまり、若い社員の離職率が非常に高い。

本社支社のいろんな部署を転々としている部課長クラスのいわゆる"エリート"は3年間、その部署で本社の言い分を代弁していれば、いずれ別の事務系に鞍替えできるのだが、支社の中途採用で執られた私や、新入社員の福井くんは、運が良くてもこの事務室内でしか動けない。

「それにっさあ、福井さあ、たるんでるよね」
「はあ?」
「まだ来てないだろ。今何時だ?8時45分だぞ」
「ええ、始業は9時ですしね。彼は電車だし」
「あのっさあ、始業30分前に準備は、社会人としての常識だろうがよ」

アホらし。もう返事もする気が無くなった。

「それにっさあ、派遣の神保さん?あの人、すぐに休むよね」
「ああ…お子さんが小学2年生で、学校行事とか色々あるらしいし…」
「関係ねえだろ。こっちは仕事だぞ。人が足りないって頼み込んで派遣一人回してもらったんだよ」

頼み込んだのは、前任の課長だ。額田は文句はいえど、一つも用土課のためになることはしていない。

「んでっっさあ、こないだも1ヶ月休んでたよな」
「ああ。あれは派遣会社の方から、緊急事態宣言を受けて、休んでもいいっていう通達が来たからで…」
「んんなのウチと関係ないじゃん。キミがそれでも来いって言えばよかったんじゃないの?」
「いや、お子さんが緊急事態宣言で学校が休みになって…」
「キミさー、子供子供って、アナタのところは子供いないんでしょー?なんで子供いる人の気持ちが解るの?福井のことといい、アナタが教育ができてないだけでしょうがー」

いや、家庭事情に教育関係ないだろ。とりあえずここは肯定はしないで、死んだ目で無言を貫くのが、これまでの人生の切り抜け方だ。

「あとっさあ、なーんか、こんなの来てんだけど?経理から」

ブルーのクリアーファイルを覗くと、細かいエクセルの表を打ち出したものに、ピンクの蛍光ペンでチェックが入っている。おそらく二重入力か、数値入力忘れだ。こういうのはよくあることだし、業者からの請求は1つなので、合わせて訂正すれば良いだけのものだ。

「あのさ、キミもさー、ちょっとたるんでんでしょー最近。どうせ子供もいないし、旦那もいないんだし、もうちょっと、彼らの仕事のチェックとか、見積もりまとめるとか、夜までやればいいじゃん」
「あ、やっても残業でないんで」
「ざ、残業代ー?んんなもん、アンタのミスのチェックや仕事の遅れに、残業代なんかでませんよ。当たり前でしょうが」
「…」
「んフ、どうせね、今辞めたって、もう転職も無理なんでしょ?アナタいくつだっけ?48?じゃあ死ぬまでここにいるんだ。だったら、死ぬ気で仕事するべきでしょうが」

無意識で左手の中指の爪を手のひらに押し付け、右手は頭をバリバリとかきむしってしまっているのに気がついた。右のもみあげの上の部分に、1円玉くらいのハゲが出来ていると、先月の美容院で言われたんだった。

「あー、もう9時か、見積もり今日中な。あと、派遣会社に休ませるなって電話しとけよ」

そんな理不尽な電話なんかできるか。

「おはよザイマース」
福井くんがギリギリで滑り込んできた。
「おはよう」

さっきまでの課長の説教の流れで、イヤミの一つも言いそうになるが、大きく息を吸い込んで止める。嫌な上司の下で過ごした人の多くは、その人自身も同じような嫌な上司になってしまう。2つの会社で30年も勤めれば、そういう事例をたくさん見てきた。額田課長の上司にも、ああいう人がいたのだろう。ああ不幸な人だ。私はそうなってはいけない。それ以前に、福井くんは、やめられないように守らないといけない。

「あ、これ」
福井が机の上にあるブルーのクリアファイルをに気がついたようだ。さっきの経理からの訂正依頼を、額田課長が置いたらしい。

「あー、これねー。課長が空欄にしておけって言ったやつじゃないすか。去年の納入額とえらい違うからって」
「あ、そうだっけ?」
「そうでしょ。吉原さんも聞いてたでしょ。課長がE設備を呼び出して聞くとか言うから」
「あ…そうだった…ね」

40代も後半、正直なところ、記憶力に自信が無くなっている。

「吉原さんもさー、聞いてたんなら課長にガツンと言ってくださいよ。あっちのミスでまた小言聞かされんすよ」
「ああ、ねえ…」
「吉原さん、ベテランなんでしょ?新入社員に言えないこと、言ってもらわないと、なんの為にいるんですか?」

うるさい。
爆発しそうになるのを堪える。黙って立ち上げて放っていたコンピューターのメールをチェックする。

『子供が39度の熱を出したので休みます 神保』

おいおい、まずいよ。家族の発熱はコロナウイルスのPCR検査と、人事課に報告する義務がある。派遣社員はそのルール、解っているのか?その旨を簡単に返信。

ああ、死にたい。

2.

 その日はサービス残業を2時間行い、電車で40分。飲食店が政府の指示で閉店させられるギリギリの20時ごろに最寄り駅に着く。各店の閉店時間は余裕を持っているのかと思っていたが、見ている限りは20時になってから、慌てて客を追い出すようだ。

幸い、21時まで開いている駅前のスーパーで、お惣菜と野菜、氷結チューハイの 500ml ロング缶4本を購入して家路につく。駅から徒歩5分。夫と駅近の物件を選んでおいてよかったと思う瞬間だ。

玄関の門灯と、玄関内の照明は、タイマーで毎日17時半に点くようにセットしている。回覧板を持ってきた隣のおばあちゃんに「いつも電気がついているのに、いないのねえ」と言われたことがある。ただ、暗い家に帰りたくないのだ。

シャワーを浴び、冷凍したご飯とお惣菜を温め、冷蔵庫にあった豆腐と買ってきた野菜で簡単なサラダを作って、リビングに運ぶ。AmazonのFire TVを立ち上げて、今期のアニメを選んで、いつもの晩酌開始。21時前。

玄関、リビング、洗面、風呂、キッチン、リビング。ほとんどワンルームの生活だ。リビングにはいつも3着のスーツがかけっぱなしだし、シャツや下着もプラスチックボックスを置いてそこにしまっている。パジャマと部屋着もリビングのカゴの中だ。1週間に1回だけ、洗濯を干しにとパジャマと部屋着を取りに二階に行く。

二階には、ベッドルーム、元夫の部屋、物置代わりにしている小部屋があるが、夫が死んで8年。物置と洗濯物干し以外では、階段をほとんど使っていない。私と同じ会社だった夫は、40のときに現場で心不全で倒れ、そのまま亡くなった。そこから口を聞いてもらって、より家から近い今の会社に転職したのだ。なお、家のローンは夫が死んだときに生命保険で完済済みである。そういえば、家を買うときに生命保険に加入させられていたっけ。

元夫の部屋も、元から物置みたいなものだ。パソコンの置かれたデスク。小さくシンプルなデスクの後ろには専門書がメインの本棚。それくらいしかない。子供がいたら別の用途も有っただろう。夫の置いているものには特段思い入れはないが、私一人には一戸建ては広すぎるので、カーテンも閉めて、そのままにしている。

現在の寝室は、一階リビングの隣にある和室だ。週末はリビングに布団を持ち込んで、配信ドラマを見ながら寝落ちすることもある。テレビ番組を録画する必要がなくなったので、レコーダーも使わなくなった。

夫が死んでから、できるだけ物を増やさないようにしているのは、節約や置き場の問題ではない。とにかく、何もかも面倒になってしまっただけである。元から音楽が聞かず、本も読まない生活をしていたし、最近は電子書籍端末に週に一度、期間限定の無料マンガをどっさりダウンロードすれば、家も狭くならないし、通勤時間も問題ない。配信時代って楽になった。

ああ、そろそろ庭の草をなんとかしないとな。独り身に庭は必要なかったな。自分の両親も、夫と前後して亡くなり、親の介護でこの家を使うこともない。

ああ、めんどくさい。

3.

「あ、ちょっといい?」
額田課長の朝一の挨拶は、ほとんどこれだ。
「あ、おはようございます」
「蛍光灯の件な、見積もりの件はいいんだけどさああ、なんで昨年度のと比較が入ってないわけ?」
「え?昨年度納入価は書いてありましたよね」
「違うだろうよう、昨年度の各社の見積額。なんで無いの?」
「知りませんよ。去年は管理課がやったんですよ。その仕事を用度がやってるのもおかしいでしょう?」
「あ?あんまいなあアンタ、他の課の仕事を奪って成果を上げる。そうしないと給料上がらないんだよ?」
「はあ」

意味がわからない。

「あとさああ、昨日、福井が来たんだけどよ、表の空欄、オレのせいにするんだよな」
「そうですか」
「そうですかじゃないよ、誰が経理に説明しに行くわけ?吉原さん行ってくれる?」
「いいですよ」
「ええ?」
「納入価を書き込んで持っていって、すいませんでしたっていうだけでいいんでしょ?」
「おまえ、そんなんだから経理になめられてんだろうがよ」

知らんがな。経理課とはケンカをしても、ろくなエンディングが迎えられるとは思えないから、とっとと経理課を丸め込んだほうが得に決まっている。

「あとさあ、前から言ってるけど、神保さんな…」

まただ。彼女は1週間休みというのは昨日に人事課に伝えた。本人は案の定、何の連絡もしていない。上も上だが、下も下だ。こんなに人間が出来てない人ばかりの部署にいるのは耐えられない。死にたい。というか、このおっさんを殺したい。今すぐ殺したい。

無意識に右の頭部をバリバリとかきむしってしまう。耳の後ろに吹き出物ができているらしく、不快な痛みと、その一部が破れて汁が出ているのを感じる。また脱毛症になるから掻いちゃダメだ、と意識すればするほどやってしまう。

「…あとさあ、明日、本社から次長が来るんだってな」
「先週言ってましたよね」
「はあ?オレが?覚えてねえよ」
「部課長会で言われたとか…」
「ええ?知らねえよ。なんでリマインドしてくれないわけ?」
「…」
「そういうの、部下の役目でしょうが。まあいいや。どうせここには来ないだろうし…」

死ね。

ああ、そうだ、新型コロナウイルスって、40代より上だと重症化するんだっけな。それだと、迷惑をかけずに、怪しまれずに死ねるな。家で孤独死したら、清掃会社に迷惑はかけるかな。消毒するくらいなら、家ごと潰してくれたらいいのにな。

待てよ。
生命保険を掛けていたから、死亡したらお金は残るんだ。あれって、誰の受け取りなってたっけ?自分?自分が受け取る生命保険ってなんだろう?まあいいや、今なら行政側で消毒と清掃はしてくれそうじゃない?あ、なんかその死に方いいかも…。

「…吉原さん?何か笑ってない?」
「あ、すいません」

マスクをしているのに、わかるくらいにニヤけてしまったのかもしれない。

「あのさ、えーと、まあいいや。ていうか、9時じゃん。福井来てないし、ちょっとちゃんと教育してよね。それと、上司に楯突かないように強く言って!」

言えるか。死ね。
死ね?

そうか、このおっさんも50代の前半。コロナウイルスで重症化する年齢じゃないか。いつも甘いコーヒーばっかり飲んでいるし、気がついてないだろうが糖尿の気があるんじゃないか?ということは、私がまず罹って、それをうつせばいいんじゃないか。

問題は、どうやってコロナウイルスをもらってくるかだ。ニュースからすると、居酒屋か。効率よくかかるには、沢山の人が大声で騒いでいるところに行くのがいい。最寄りのO駅やN駅の居酒屋は、他の社員に入店を見られたらまずい。さっと行って、1時間くらい粘って帰ってこれる、誰にも顔を覚えられないところ。よし、次の土曜日にチャレンジしてみよう。

4.

 土曜。少し暑いくらいの陽気の中、地味なグレーのウインドブレーカーにジーンズと言う格好で電車に乗る。電車は恐ろしいくらい空いている。しかし、乗客の1割ほどはマスクをしていないし、数人は缶チューハイやワンカップを飲んでいる。まともな人は家にこもっているのか、それとも車ででかけているのか。

ターミナル駅でいつもと違う方向へ乗り換える。U駅付近なら裏通りに居酒屋も多そうだ。移動でも怪しまれないように、常に本を読んでおく。これからやることを思うと、全く文章が頭に入ってこない。「私はこれから本屋に行くのだ。U駅の駅前ビルにある、大きいJ書房で本を買うのだ」と自分に言い聞かせる。U駅まで15分。幸いに知った顔には会わなかった。

U駅を降りると、ターミナル駅以上に賑わっている。これ、本当に緊急事態宣言?と言いたくなる。普段から顔を合わせたくない、顎マスクや鼻マスクの若者とすれ違う。すれ違う際に、そっとマスクを持ち上げて、彼らの出した飛沫を吸い込んでみる。何の手応えも、においもしない。彼らは大学生くらいだろうか。大学はオンライン授業になっているから、感染しないのだろうか。だとしたら、今の私には用は無い。もう若い男を追いかける気力もない。

「ちょっと、受け取ってください」
富士山の写真のチラシを配る宗教の勧誘だ。もう神も仏もねえよ。こっちは、救いよりもウイルスが欲しいんだよ。そう思いながら通り過ぎる。今どき、手から手に渡すチラシやティッシュに、どれくらい需要があるのだろうか。

駅前のビルに入り、エスカレーターを上る。コーヒー雑貨屋では、試飲のコーヒーを配らなくなった。10年後くらいには「昔は試食っていうのが有ってね」などとしゃべるのが当たり前かもしれない。10年後、58歳。まだ定年じゃない。じゃない。ウイルスさえ貰えれば、10年も生きなくて済むのである。

店内は、思ったほど空いているわけではない。ニトリの雑貨屋や本屋は、むしろ平常時よりも混んでいるのではないかと思うほど人がいる。時折、マスクを持ち上げて、若い人たちの飛沫を吸い込む。ウイルス来い、ウイルス来い。なぜかテトリスで、赤いまっすぐの棒を待っているのを思い出す。

本屋では、実のところ欲しい本があるわけではないので、立ち読みしては飛沫を吸い込み、結局どうでもいい雑誌を1冊だけ購入した。

駅ビルを出て、居酒屋へ。U駅の表側に、サッカーファンが集まる居酒屋があるということで足を運んでみたが、換気を行っているのもあって、ものすごく開放的である。しかも大手スーパーと並びにあるため、U駅に住んでいる他の社員家族に見つかるかもしれない。これは誤算だった。しかも、試合日ともあり店内は赤いユニフォームを着た人たちで埋まっている。グレーの私が入ったら、逆に浮いてしまう。

その道を少し寂しい方に進むと、居酒屋のチェーン店がいくつか並んでいた。ここまでくれば見つからないだろう。魚魚という、ふざけた名前の居酒屋に入ると、案の定空いていた。

いや、空いていないほうが良いんじゃない?と思いつつ、生搾りグレープフルーツサワーと刺し身、枝豆を注文した。ウイルスが死なないよう、できるだけ冷たいものを。あれ、ウイルスって熱で死ぬんだっけ?あと、店員さんのお兄ちゃんの手が触れるやつ。飛沫だけでなく、接触ウイルスもちょうだい!

それから1時間。いい感じに酔っ払い、お腹もくちくなったところで会計をして店を出た。客は頻繁に入れ替わっていたけど、みんな静かだった。私は一人でスマホをいじってチューハイを飲んでいたが、他の客もほとんど大差なかった。飛沫、ちゃんと貰えたかしらん。

5.

 結局まったく症状の気配もないまま、次の週の土曜日。今度は最初から仕事と反対側の電車に乗り、K駅へ。まずランチビールだ。駅前のランチをやっている居酒屋に飛び込んで、掘りごたつでホッケ定食をつつきながらビールを飲んでいると、隣の席から子供の走り回る足音と声がする。

「ちゃんと座って、食べちゃいなさい!」
「ここやーだー、暗いー」

なるほど、ランチタイムは子供がいる店ってのがあるのだな。子供はコロナウイルスに感染しても無症状かもしれない。よし、もっと騒げ、いいぞ子供。

その後、全く興味のない寺や名所をめぐり、あえて人混みに紛れていく。思った以上に混んでいる。車で走って丁度いいくらいの距離なのだろうか。

夕方、少し早いが、以前から気になっていたファミレス飲みを決行。格安イタリアンのチェーン店で、ワインとチューハイ、そして一度食べてみたかったエスカルゴにソーセージを注文。隣の席では、ドリンクバー目当ての高校生が、試験勉強をしながらだべっている。いいぞ若者。吾にウイルスを。もっとウイルスを。

エスカルゴは、思ったよりも生臭い感じで、ワインには合うかなという味であった。それにしても、このチェーン店は、イタリアンの割にニンニクの使用量が少ない気がする。ガーリックパウダーを粉チーズとともに置いて欲しいなあ、などと完全にエンジョイしてしまった。

その後、U駅に行ってから4週間経つが何の症状もない。いかに世の中が感染対策を徹底しているのかということを思い知った。むしろ、毎週土曜日の一人飲み歩きが、いつの間にか生きがいになっているように感じる。仕事のストレスが、土曜の夜に最低になっている実感がある。ほろ酔いで帰ってシャワーを浴び、ハイボールを作りながら配信ドラマを見る時間が最高だ。福井くんに教えてやろうか。いや、飲みに行ってるのがバレたらまずいな。

こうなったら仕方がない。都内だ。県境を超え、都内の居酒屋に突撃するしかもう方法はないだろう。

(つづく)
(本作はフィクションです)

(2021年2月頃執筆)