65. 不吉な富士山。

 2020年11月の初旬。新型肺炎ウイルスの蔓延は収まるところを知らず、各地で感染者数が最高記録を更新したと、連日報道がなされている。そういうテレビのニュースなのだかバラエティーだかわからない番組は、マイクを持って市場などに押し入っては、マスクもせず、プラバン1枚だけで、店主にマイクを突きつけてコメントを取っているのだから呆れ返る。

ところで、通勤する電車の窓から、一瞬だけ富士山が見える。S県から富士山が見えるのは、台風一過などでもない限り、10月の後半から4月の前半までだ。時間的には、真冬なら昼間でもうっすら見えることはあるが、はっきりと認識できるのは、朝と夕方である。一度、冬の木更津の夕方に、海の向こうに大きく、夕焼けの逆光になって見えた、壮大な富士山には感動したものである。

関西に生まれ育った私と妻においては、富士山と東京タワーというのは、特別なものだ。関西で、それらのような象徴的な山や建物が見られないだけでなく、雑誌や教科書で見た、あの姿そのままが見られることは、非常に意義が大きい。

もちろん、新幹線の2人席を確保し、間近で見られる富士山も良いものである。10月からは、上部に雪も積もり、古来から描かれた富士山のそれになるのだ。写真に撮るために、新富士駅に近づいたらソワソワしてしまうのは、関東関西に問わず、ほとんどの人がそうであろう。

その日は、電車で桐野夏生『OUT (上)』の本を開いたまま、次から次へと登場する弁当屋のパートの名前が頭に入らず、ぼんやりしていた。

そもそも、新型肺炎騒ぎになってから、出勤が1時間前倒しになっており、常に睡眠不足である。ニンテンドーDSの『ガールズモード』というゲームにドハマリした子供が、23時くらいまで寝てくれないにも関わらず、毎朝の目覚しスマホの設定時間は5:00である。前倒しになることで、終業は16時になり、残業を生じさせないようにソソと帰宅するのだが、なぜか9時過ぎにのんびり来る留学生研究員や学生たちも16時にとっとと店じまいしてしまい、私よりも先に帰ってしまう。それは関係ない。

前週、急遽16時からウェブ会議が入ってしまったのだった。それに加えて、ここ数週間、ものすごく仕事が詰まっている。マウスに、薬の前駆体を投与するという仕事が入ってきたが、これは自分の研究ではなく、学生ができなさそうなので私にお鉢が回ってきたのだ。40匹のマウスに注射を行うのだが、薬が溶けにくいなどもあって、注射だけで3時間は要する。さらに、評価調書の締め切り、報告書の締め切りも迫っている。ついでに、午前中には、進捗の怪しい学生と所長とで面談を行わねばならない。キツキツだ。

一方で、イヤホンのボリュームを上げて、頭に流れる『けいおん!』の劇中曲『ふわふわ時間(タイム)』を追い出すことにも躍起になっている。アマゾンプライムで無料配信されており、劇中で何度か流れる、ある意味でテーマソングだ。覚えやすい歌詞で、Youtubeに合わせて子供が歌い、私自身もこれ弾けそうだなと思って以降、ついギターの練習でも弾いてしまう。女子高生がはじめて作曲した曲という設定も有り、コード進行やギターソロなどの女子高生設定の無理はさておき、大体弾けてしまうのがたちが悪い。その影響も有り、油断すると一日中頭の中を"ふわふわ"と漂い続けるのだ。ミーティング中の"ふわふわ"、すぐ消したい。

そんな状態で、ふと顔を上げると、例の森とマンションの間に、クッキリと、朝日で柿色に輝く富士山が目に入ってきた。

しまった。見てしまった。朝は富士山を見てはならぬ。このジンクスは、相当昔にできたものだ。

*

朝の富士山は不吉であるというジンクスの始めは、11年ほど前だ。

家を買うと決めた早春のある日。夕方18時から、ローンの打ち合わせがあるということで、Dハウスでの打ち合わせの予定が入っていた。奇しくも、担当営業はギターマニアの同年代で、Youtubeに演奏動画をいくつか上げているという。有る時ふと、ギターを持ってると漏らしたところ、意気投合というか、一方的に気に入られ、「値引きします!」「任せてください!」の勢いのまま、今の家を購入する事になった。今なら、少しはギターの話が出きると思うんだけど。

その日、朝から晴れ晴れとした気分で電車に乗った。当時はたったの2駅であった。晴れ晴れとした気分に、窓の外には壮大な富士山。よし、やるぞ。

しかし、仕事に来てみればそうは行かない。当時受け持っていたKという学生は、明後日が博士論文の提出期限だと言うのに、11時まで来ない。まだ第1校しか直していないので、提出などできるわけがないのである。

11時頃に現れ、催促して、第2校を渡されたのが、14時。他の仕事も立て込んでいたが、さっさと直してしまわないと、ろくなことがない。赤ペンと紅茶を片手に手をつけるも、図の番号は今だ空欄、スペルミスに参考文献無し。図自体が1つ空白という恐ろしい状況である。当然書き込みで真っ赤になっていく。原稿が。

「あのさー、ここ、なんでまだ図が入らないわけ?」
「所長にOK取ってないンスー」
「今すぐ聞いてきて」
「エー?」

エーとか言ってる場合ではなかろう。
「早く行け、今すぐ」
「…チッ」

数分後。
「好きにしろって言ってました」
「あっそ、じゃあ、解析したやつ全部入れよう。リストでExcelで持ってるだろ。それを貼り付けろ」
「エー、リストって120個もあるんですヨー」
「だから、表として出せば2ページには収まるだろ」
「エー?所長に聞きまスー」

更に数分後。
「所長に聞いたらー、当たりの5つだけでいいって言ってましたヨー」
「あっそ、じゃあその5つをすぐに入れて印刷して。それから赤の部分、速攻で直して」
「…チッ」

16:30。ようやく印刷が完了。相変わらず図の番号はないし、参考文献自体が無いため、番号など触れる状況にない。一通り目を通し、直り切っていない文章に赤を入れる。

「まあいいわ、赤のところを直して、今日中に所長に提出して。明日までに戻ってくるだろうけど、それを待ってないで、参考文献と図の番号を入れて、云々カンヌン」

時刻は17時を回っている。やばい。打ち合わせの時間までわずかだ。
慌てて荷物をまとめ、上着を着たところで、学生Kが突然、

「ちょっといいですカー?ボクもCアッセイやってみたいんですけドー」

自分でも目がつり上がっているのがわかる」
「…今度にして」
「いつもそうじゃないですカー、人がやる気出したら、邪魔をする」
「…うっさいわ!なんでこのタイミングや!やる気有るんなら午前中に言え。それに、いまからCアッセイやっても、何の結果にも繋がらんやろが。そんな無駄な研究にウチの材料を使うのは許さん!」
関西弁が出てくる。ダメだ、日頃の鬱憤がここで溢れ出しそうになっている。とにかくここを離れねばならない。

「…いらんこと言ってんと、直して所長に出せ。明日の朝までに論文の参考文献と図の番号を文章に入れろ」

腹から言葉が逆流してくるのを鼻から逃しつつ、駅に向かい、電車に乗る。そこで、朝に見た富士山を思い出す。あれは、悪い兆候だったのか?

結局この学生Kは、提出期限の当日、18時までグダグダと文句を言いながら論文を書いていた。S大学の学務が寛大で助かっただけだ。

*

もう1件。時は、数年前の冬に遡る。

当時いた、中国人のポスドクの女性が、なにやら騒いでいるなと思っていたところ、実験中の私のところに、所長を引き連れて来て止まった。

「武井さんが、やったです」

何のことだ?

「HindIIIとEcoRIのコンタミは、武井さんがやった」
「は?」

話を聞くと、DNAを切断する制限酵素である、HindIIIで切っても、EcoRIで切っても、同じサイズのバンドがでてくるというのだ。バンドというのは、2箇所以上切断されないと生じない。つまり、混ざったというのが、彼女の主張である。

「武井ちゃーん、知ってるー?」
所長も押しの強いポスドクにタジタジである。
「だって、みんなに聞いたら、直前にEcoRI使ったのは、武井さんていう」
中国人ポスドクが畳み掛けてくる」

「…まあ、EcoRIは使いましたけどね、私はHindIIIは何年も使ってないですよ」
「その使った時に、HindIII、混ぜた!」
「混ぜるわけがないでしょ。そんなことしても仕方ないでしょ?」
「でも混ざってる。わざと混ぜた!」

所長もなんとなくわかってきたようで、目で「わかったわかった」というサインを送ってきている。某大学教授から押し付けられ、成果もないのにそこそこの高給で雇っているポスドクである。

「…あー、わかったー、ね。じゃあー、新しいの、開けようかー」
所長の提案に、中国人ポスドクは、ムスッとした表情で去っていった。

そのとき脳裏には、その日の朝、電車からクッキリと見えた、富士山が浮かんでいた。あれだ。あれがダメなのだ。

そのポスドクは、その年末に、報酬を2箇所からもらうという二重取りを行っていたことが判明して、解雇となった。

*

結局、ウェブ会議は言うまでもなく紛糾し、18時まで長引いたのである。