9. 夜、歩く。

 歩いている時間の何が好きかというと、普段思いつかないことが思いつくことだろう。もちろん景色を見、雑草を愛で、野良猫にガンを飛ばし、自動販売機の前で100円を拾うのも好きなことであるが、歩いている時間の9割以上は何も起こらない。

何も起こらない間は、頭の中で文章が流れていることが多い。どこにも出したことのない小説の文章の推敲、研究のアイデア、上司とやり合うシミュレーション、タケモトピアノのCMの財津一郎の声などがランダムに行き交う。この年になっても、財津一郎と財津和夫が同一人物の読み方間違いだったのか、それとも似た名前の他人なのかわからなくなるのは相変わらずだ。だから人前では言わないようにしている。はっきりさせてチョーダイ。

などと考えて歩いていると、MP3プレーヤーからは、Soundcloudから落としたなんだかわからないDJの、なんだかわからない曲をMixした何かがかかっている。本当に他人は、何を考えながら歩いているのであろうかなどと考えながら、お茶屋の角で右に曲がったところで、闇夜に浮く顔に遭遇し、思わずギャッと声を上げそうになった。スマホの画面を見ながら歩いている女性。

そういえば、1年ほど前、このお茶屋の前で
「何だとこのやろう!お前のやってることはセクハラなんだよ!もう一度来いって、ふざけるのもいいかげんにしろよ!」
と怒鳴っている女性にもあったことが有る。よく見たらイヤホンマイクでセクハラオヤジらしき人物と通話中であった。どうもこのお茶屋の前はろくなことがない。しかし、このお茶屋の抹茶アイスはうまいのだ。あの女性はセクハラオヤジとは和解したのであろうか。

歩いているとアイデアが浮かぶという話だった。学生時代に、仲間内でチームTシャツをデザインしたことが有った。ユニクロにイラストレーター形式で入稿し、購入するものである。そのデザインが思いついたのも、当時住んでいたあたりの、別のお茶屋さんの前を歩いていたときであった。使えるのは白1色のみという制限に、凝ったイラストはできないことから、レシートの柄にしたらどうかと思ったのだ。デザインは入校時までは好評だった。サイズも質感も、見事に胸にレシートが貼り付いているように再現されたTシャツを見て、皆口を揃えて「…これは着て歩けないな」言った。

公園の角、斜向かいに「古本大学」のところを左に折れる。2年前までは、たしかに古本屋であった。「古本ツアー・イン・ジャパン」というブログの主も来ていたのは、有名と言っていいのかどうか。通っていた高校の近くには「ラーメン大学」が有ったし、大学の近くには「眼鏡大学」が有った。職場から少し言ったところには「自動車大学」が有るが、これは中古車屋ではなくて、ちゃんとした学校法人らしい。世の中にはいろいろな大学が有るものである。「ナントカ女子高校」というと、だいたい夜の店である。

家が見えてきた。最近、夜間に門灯を付けているのは、我が家くらいである。皆さん、家族が全員帰宅すると消すのが一般的だそうだ。そこで思わず、ギャッと、いや正確には「ウワハッ」と声を出してしまった。

暗い中、植え込みから、こちらに向かって、白い腕が2本突き出している。
門扉にゴム手袋をかけて干すという習慣は、勘弁していただきたい。