109. 休日出勤者の憂鬱。

 休日出勤が憂鬱になったのは、職場と家が遠くなってからだろうか。結婚当初までは、職場のビルから自転車で2kmくらいの田舎の4階建てアパートに住んでおり、毎週土曜日か日曜日に翌週の仕事の仕込みに顔を出していた。一時期、両方行けば効率良いなと考えて実行してみたが、どんどん体の具合が悪くなり、1週間に24時間は連続で職場を離れた方が良いことを悟った。なお、1日の場合は可能な限り、12時間職場から離れると体調が良くなるらしい。

家が遠くなり、休日に出るとなると時間外勤務、つまり残業を貰わないとやっていけなくなった。ドアtoドアで片道60分。行って帰って2時間半である。1時間の作業をするのに、3時間半必要になるのだ。

7月のとある日曜日、重い足を引きずって職場へ向かう。いや、家のドアから出てしまえば足取りは軽いのだが、ドアまではとてつもなく重い。電車に乗り込めば、読み進めている本を消化する時間が取れる。土日に家にいたら本も読まないからである。普段よりも人が多く、なんだかウキウキした空気の漂うターミナル駅を、他人のウキウキ気分で息が詰まりそうになりながら通過し、下りの電車に乗り換える。人が少なくて広々としたシートに腰掛けると、リラックスしすぎて、逆に読書が進まない。

会社の最寄り駅では、2~3人ほどしか下車しない。いつもの社員、学校関係者、学生たちがいないので、色々と間違っている気分になる。改札の人が「あれ?あの人なぜ今日いるのかな?」という目で見ている、気がする。

建物上層部にある研究所の階へのエレベーターももちろん一人だ。エレベーター奥の鏡に向かって意味もなく変顔をしてみたり、ギターを構えるポーズを取ってみたりしながら、あれ?これは警備員のおっちゃんが見てるんだっけな?と冷静になる。エレベーター内がホコリくさい。掃除しているんだろうかと思っているうちに、6階に到着した。

エレベーターのドアが開き、IDカードが必要なドアの向こうが暗いことで、ちょっとホッとする。良かった。誰もいない。廊下の照明のスイッチを入れ、IDカードを取り出してリーダーにかざして、ドアを開けるまでの約8秒の間に、「この後まず培地を出してから荷物を置き、パソコンを起動するとメールやネットで時間を食うから、カバンだけ置いて実験室に移動して、器具を培養室に置いて当番である動物室の温度管理のメモへ…」と無駄のない動きのシミュレーションを行うのが定番である。

私の部屋と実験室は、エレベーターから一番遠い北の端だ。途中の実験室、最も嫌な所長室前を通るが、今日は誰もいない。よし、と小さくガッツポーズをしながら歩いていると、廊下右手のトイレのドアがカラカラと音をたてて開いた。

「…ひっ」
「あ、武井さん、今日当番ですか?」
研究員の安西さんだ。年齢はわからないが、若手なので30代の半ば、独身女性である。
「あ、安西さん、なんで電気つけずに…」
「ええ、すぐ帰るんで、いいかなと」
「う、うん、はよ帰りな」
安西さんはトイレの斜め向かいの居室へ入っていった。びっくりした。なんなんだもう。

私の職場は、親会社の製薬会社の方針で、新しい薬候補の生物への影響を調べ、あわよくば全く新しい薬を開発するのが目的の研究所だ。星の数ほどある化合物から新しい薬をこんな弱小研究所で探し出すことなど、私が逆立ちして日本列島を縦断するより難しいことではあるのだが。

世間では、研究所というと、土日も夜も昼もなく研究を行っていると考えられていると思うが、実はそうでもない。最近は夜も土日もほとんど人はいない。昔は研究室は「夜型」「昼型」なんていって、夜と昼の住人が入れ替わって、24時間稼働していたものだが、時代は変わった。私も大学の頃は夜型に近く、昼の12時頃から夜の12時頃まで研究室にいたものだ。個人的には、大学院の途中で朝昼型に矯正したのもあるが、世の中は気がついたら昼形に変わっていた。

一つのきっかけは、大震災だったのではないかと思う。余震が来るから、節電が必要だからと、装置の終夜運転をしないように通達が有ってから、大体22時頃には遅い学生も帰宅するようになった。震災の後は、夜間の機械の故障対応も悪くなり、というか、サポートの手厚かった冷凍庫のメーカーが、大手の電機メーカーに買われてサポート拠点の減少によって、夜中に対応してくれなくなったりしたのもあるだろう。冷凍庫など24時間いつ故障してもおかしくないのだが、現場の感覚でいうと、その故障に直面したくないという心理が働くのは当然のことだ。

震災の次の年の元旦1月1日。朝の10時にそっと研究室に入ったら、ある小部屋の電気がついており、ブツブツとなにやら声が聞こえて「ひっ!?」となったことがある。どうやらロシアの留学生が、家が寒くネットも繋がらないため、年末年始の休みに研究室でネットを使って電話をしていたらしい。研究をしていたわけではなかった。

もう一つのきっかけは、新型肺炎のまん延、と言いたいところだが、それより4~5年前からであろう。学生が真面目になり、朝9時には来るようになった。その代わり、18時頃にはみんな帰ってしまうようになって、土日は一切来なくなった。理由は完全にはわからないが、効率よく作業のできるキットなどの普及もあるのではないかと思う。近年の実験では、試薬作成が必要なくなって、そういう準備時間がなくなっているのである。

学生が早く帰宅することに伴い、指導をしている職員も19時には帰宅できるようになって、非常に楽にはなった。さらには新型肺炎まん延以降は、職員の半数が1時間前倒しの時差勤務になったため、遅く来る学生は、夜間は放置されるようになっている。

こうした学生の研究時間の短縮は、産官学の少し変わった研究所だけの話かと思っていたが、学会で話した大学勤務の同級生のところもそうらしい。海外留学者のブログなどを見ていると「朝の6時から夜の2時まで普通に実験している。ボスも2時にはまだ仕事をしている」などと書かれており、研究時間の短縮は、日本だけのことなのかもしれない。仕方がないよね、所詮、我々はアメリカの初任給の半分しかもらえない、薄給のサラリーマンなのだから。

当番の温度記録が済み、週明けの仕事に使う仕込みの細胞を数を揃えて用意する。細胞もそれぞれ性格があるが、動物の細胞は、ダブリングタイム、つまり2倍に増加するまでの時間が12~72時間。それらの多くは24時間前後である。したがって、24時間すると倍加するので、実験の前に数を揃えておくのは重要な作業なのである。

学生にやらせると30分はかかる作業も、研究歴20年を超えた人間にかかると、10分強で終了する。時間外は1時間請求だな、などと考えながら片付けの洗い物をこなす。途中出入り口ドアの音もしなかったから、誰も来ていないだろう。実験室をあとにするが、安西さんはまだ帰っていないようだった。

休日出勤で会いたくない人。過去に受け持った、帰り際に「ちょっといいですか?」「〇〇を使いたいんですけど、どこにありますか?」と声をかけてくるあの学生。あいつは土日に来たとしても、午前中には来なかったか。平日も毎日寝坊で遅刻していたからな。

会いたくないといえば、当然所長である。この研究所に入ってかれこれ15年は経つが、今のところ休日に鉢合わせしたのは、一度だけだった。

所長は、自宅がいくつかある。本宅は東京の石神井とかいうところだったか。Pという薬を見つけたときの特許報酬で購入し、社内では「P御殿」と言われている。庭には池と川があり、子供も独立したため、奥さんが一人で住んでいるとの話だ。

S県に研究所が移ってからは、所長は職場から歩いて5分のところに2階建ての家「別宅」を購入して持っている。一週間のうち、半分以上はその「別宅」で一人で住んでいるらしい。趣味のオーディオや映画部屋なるものがあるらしいという噂を聞いたことがある。男一人なので汚れるため、週に1度は通いの掃除屋に掃除をしてもらっているらしいとのことだ。

所長はおそらく、土日は本宅へ帰っているものとみられるが、震災の後だったか一度だけ、日曜日に研究所に現れた。

「あ、武井…」
「あ、こんちわ」

日曜の午前中に所長室のドアが開いているのは珍しいので、いやな予感はしていたのだ。とにかく目を合わせないようにして、必要な仕事に集中する。PCを起動したら長くなるので、荷物をデスクの上に投げておき、速攻で細胞の培養室にこもる。

あーいやだいやだ。何かあったっけ?この間投稿した、医者のOの論文関係?いや、まだリバイス(掲載のための修正)が指示されるには早すぎる。だとしたらリジェクト(拒否)されたか、そうでもないか、それとも看護の学生のSの論文?留学生のA?

嫌な気分になりながら、高速で細胞の処理を済ませ、洗い物をして居室に戻ると、そこに所長がいた。いつもと違い、グレーのスラックスにチェックのシャツというラフな格好だ。

「座ってー」
「あ、はい…」
やばい。長くなるやつだ。
「こないださー、O君の論文投稿したじゃん?」
「…はい」
「あれさー多分通ると思うんだよね」
「そうですか」
「でさー、続きを誰か学生にさせようと思っているんだよねー」
「はあ」
「C大のT先生に聞いたらさー、外科の学生で、若いのがひとりいるっていうんだよー」
「はい」
「その子にさー、Pの薬で細胞の解析やらせようと思ってー」
「いいんじゃないですか?」

決まっていることをとにかく喋りたいだけらしい。所長に限らず、この手の会話は案外恐ろしい。過去に「将来は独立しようと思ってる」と口を滑らせた先輩研究員は、「彼がさー独立して出ていきたいんだってー」と情報を上乗せされて所長から伝えられたことがあった。その話を夜に所長から振られた私は、動物的な直感でヤバいやつだと判断し、「はあ」「へえ」と微妙な相槌を打つに徹したことがある。その後、先輩研究員は、「T部長にも出ていったほうがいいと後押し」されたとして、結局退職することになった。

「ところでさー、キミの論文、全然出てないよねー」
来た、本題の嫌味だ。
「もうさー、前の論文が出てから、3年が経つんだよー。もうちょっと、ちゃんとしてくれないとー」
「はああの、O先生の論文も、K君の論文も、私がほとんど実験してますよね」
「えー、あんなの、本人にさせればいいじゃんー」
「じゃあ、所長が言ってくださいよ。彼らはやらんでしょう」
「ええ?キミが指導するんだろー?何いってんだよ」
「はいはい」

このからくりを説明すると、こうだ。

学生であるOやKの直接指導は、たしかに私である。彼らの実験計画の具体的なところを組むのも私だ。それで、方針を決めて実験させる。その結果を水曜日のミーティングで報告すると所長が噛みついてくるのだ。

「えー、なんでそんな事やったのー?XXでいいじゃんー」
「コントロールにNNが必要でしょう?」
「そんなのやらなくていいよー!」

と所長が頭ごなしで否定するのだ。これを繰り返すことによって、学生たちは「私の方針に従って実験をやっても怒られる」と判断し、何も言うことを聞かなくなる。結局、自分の作った方針分の実験は、サンプルを出してもらって私とテクニシャンで行い、実際に投稿した論文に使われたデータの多くは、私の方針に沿ったものばかりになっていた。

「あのさー、下の人を動かすのも、社会人の仕事でしょうがー」
「じゃあ、いちいち他人の方針を否定するのをやめてもらえません?」
「ええ?否定なんかしてないだろー。だからキミのデータを論文で使っただろ」
「だからー、それを学生にやらせるのをやめさせたのは所長でしょうが」
「えー、そんなことしてないよー」
「あの、この後、予定あるので帰りますから」
私はカバンをつかんで、所長を残したまま部屋を出た。
子供が急に「ナポリタンが食べたい」と言い始めたので、妻と子供とO駅で待ち合わせをしているのだ。O駅でナポリタンといえば、「パンチョ」という大盛りの店だ。
ナポリタンを食べたらどうしようかな、もう何もかもめんどくさい。