113. 賞味期限を切らせて縁を断つ。

「先生、これ、食べます?」

事務の坂口さんが見覚えのあるお菓子を見せてきた。先月の学会のお土産で私が買って、配ったものである。

「Fさん、来ないでしょ?ずっと机にあったし、多分来ないから」
「ええ、取ってきちゃったんですか?」
私は流石に驚いて聞き返した。

「だって、賞味期限が来週までなんですよ。先生」
「あー、でもなあ…」
こういうときにどう対応していいものかというのは、いつまでも謎のままである。

「うーん、とりあえず事務に持って帰って、分けちゃっていいですよ」
とりあえずは、そう言って切り抜けることにした。

*

だいたい、お土産というものが難しい。今年の夏前に、10年来の自分自らのプロジェクトを九州で開催された小さな研究会に出した。九州というと、北から南までお土産天国である。博多通りもんから鹿児島辛子蓮根まで、甘いのから辛いのからなんでもあってありがたい。S県のせんべい以外思いつかない現状から考えると夢のようなところである。

そこでも、悩むのである。

悩みの大きなものとしては、ムスリムの人が1人いる。当然ながら豚肉や豚由来は全部ダメである。薬のカプセルに豚由来のゼラチンが入っているというだけで薬も飲まない。お菓子でいうと「ショートニング」が豚脂由来なのだそうだ。甘いクリーム系のお菓子はほぼNG。果物やお茶などを彼一人のために選ぶ必要がある。

次の悩みは、甘いものが苦手な人2人だ。昔の漫画や小説などに存在した甘いもの嫌いというのからは少しマシになったと思うが、ウチの研究所の誰とは言わないが1人はたちが悪い。一度所長が岩手土産で「かもめの玉子」を買ってきたことがある。糖衣でコーティングされた、白あん入りのカステラでなかなか美味しい。家に持って変えると粉々になっているのが難点である。それを件の人物は、わざわざ人がいるところで食べたのである。

「こういうの、すっげえまずいんですよねー」
「え?持って帰って、奥さんにあげたらいいじゃないですか」
坂口さんがフォローを入れる。

「いやダメダメ、こういうの食べないから」
「ええー、まずいって言われたら、所長も傷つきますよ」
「いいのいいの」
そうして件の人物は、かもめの玉子を半分かじり取った。

「おえー、まっず」
ゴミ箱のところに走り、吐き出す。

「やめてくださいよ!気分悪くなるでしょ!」
さすがに坂口さんも声を張り上げた。

「だってさ、まっずいんだもん」
「あなただけですよ、そんなひどいこというのは」
こういうことを一度見せつけられると、甘いものと辛いものを別々に買わなければいけなくなるのだ。こういう無神経を通り越して、無駄に攻撃的な人がいるから「研究者は世間知らずである」なんて言われるんだろう。

最後に、賞味期限である。美味しいものは、できるだけ多くの人に食べてもらいたいと思うものだ。いつも帰省時に購入する舟和の芋ようかんは良いものであるが、日持ちは翌日まで、せいぜい翌々日である。しかし、遠くへの出張であれば、翌日休みであったりと日を挟んでしまうため、最低3日以上の日持ちは必須。月曜には来ない事務員や技術員もいるため、あと数日、可能なら2週間は持ってもらいたい。そこに個包装などが絡んでくるのである。

*

昼休み後、月末の出張の申請に事務へ向かった。

「あ、さっきのお菓子、どうしました?」
「もう食べちゃいましたー」
さすが貫禄の事務員の辰巳さん、即答である。

「あ、それは良かった。辰巳さん、めぐみちゃんのギターはどうです?」
「あーねー、なんとか3曲くらいできるってなって、3月に謝恩会で演奏するらしいですよ」
「ほー、1年ちょっとですよね。やっぱり若いと上達早いですね」
「いや逆に、全然勉強してないし、大丈夫かなって」
「高校生なんて、そんなもんですよ」
「ところで先生」
坂口さんが割り込んできた。

「F先生の机にですね…」
「あー、あれはわざとだから」
Fさんは年輩の研究者である。この人は別の意味で厄介なのだ。

Fさんは、お土産を一切買ってこない。そのかわり、他人から貰ったお土産も、一切、手を付けない。自分で配りに行くと「あー、僕はいいっす」と一言。でも体面というものがあるので、机に置いておく。そして、お菓子の塚ができていくのだ。当然、お土産の賞味期限は切れていく。何ヶ月かすると、Fさんはゴミ箱を持ってきて、全部捨ててしまうのである。

本当に嫌がっているのなら、部屋の学生にあげたりすればいいのに、それはしない。何度か学生に「あれ、絶対に食べないから、夜中に食べていいよ」と言いはしたものの、学生も気まずくて手を出せないでいるのだ。

また、貰って速攻捨てるわけでもない。だいたい、なんとなく平均して3ヶ月程度は置かれている。しかも、わざわざ机の一箇所を常に空けてあり、そこへ置くように無言の強制がなされている。

部屋の学生に言わせれば「祭壇」なのだそうだ。お誂え向きにインドネシアの留学生が持ってきたガネーシャの銅製の小さな置物まで置かれている。さすがに罰が当たるからか、ガネーシャは処分される気配はない。

学生いわく、お供えをすると研究がうまくいく気がするとのことだ。しかし、私や事務の2人を含む、お土産を置く立場になるとまた印象は変るのである。毎回、回覧板を置きに行く際に、食べられず捨てられるお土産を目の当たりにして、何かしら胸にぐさりと軽い鈍痛が走るのである。

「あれねー、やめてくれないですかねー。私達へのあてつけみたいで」
「あてつけなんですよ。お土産をくれるなっていう」
「次から、F先生のところは配らなくていいですか?」
「いや、そうもいかんでしょう。Fさんだけに配らないのも…」
F先生の定年まであと1年。再雇用を希望するかどうかは知らないが、賞味期限とともに、この研究所と縁を切ろうとしている気がする。