54. コクワ氏とカブト氏。

 とある8月の日曜の朝。私は仕事の当番が当たっていたので、9時過ぎに家を出た。と、家を出て30mほどで、道路になにか落ちていることに気がついた。というか、動いていた。カブトムシである。比較的赤っぽく、ツノを除くと7cmくらいだろうか。

関東に引っ越してきてから、昆虫がやけに小さく感じる。手のひらくらいのサイズだと思っていたセミも、実際に見てみると、胴の長さは手のひらの半分から2/3程度だ。子供の頃に比べて、ではなく、関東では昆虫が小さいのだろうなどと、しばらくは思っていたが、冷静に考えてみると、最後にカブトムシやセミをじっくり見たのは、小学生の頃ではないのか。手のほうが大きくなったのかもしれない。

などと考えつつ、カブトムシのカブト氏の処遇を考える。名前は今思いついた。くだんのカブト氏はいた、と言うよりは、落ちていたと表現されるのが正しく、存在していたのは住宅地のアスファルトの上である。まだ家から30m、持って帰ろうか?とも思うものの、いくら『街へいこうよどうぶつの森』でカブトムシを乱獲しているとはいえ、娘にとって、生きて動いている昆虫は驚異でしか無い。

かといって逃がすにも、駅に向かうまでに森など無い。仕方なく、誰かが公園に植えてくれているヒマワリにカブト氏を止まらせ、スマホで写真を撮って放置することにした。デジカメ以降、昆虫や植物採集が、写真だけで済ませられるので便利である。カブト氏は、心ある、もしくは心無い子供に見つかって、運が良ければ餌をもらって長生き、運が悪ければいじくり回されて早死するであろうが、そもそも住宅地に飛んできた彼の選択が間違っていたのだ、と考えることにした。さらば、カブト氏。達者で暮らせ。

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結婚して、家を引っ越す前、クワガタとカブトムシを拾ってきて飼育したことがある。

最初はコクワガタのオスだった。ツノを含めても、体長4cm程度、自慢の薄型ボディは4~5mmというところか。当時住んでいたアパート前に飛んできたのであろうところを見つけた。懐かしいし、小さいしということで、ミニトマトの容器にティッシュを敷き詰め、そのへんに落ちていた木の枝を入れて飼うことにした。

小さい頃は、毎年何らかの昆虫を飼育し、一番長いもので12月の初めまで、ノコギリクワガタを飼っていたこともある。『どうぶつの森』でザクザク取れるが、実際にはあまり取れないミヤマクワガタとカブトムシは、寒さに弱いのか、秋になる前に大体死んでいた。

ところで、カブトムシやクワガタを飼ったことの有る人は経験があるだろうが、彼らに餌を食わせるにはどうするかというと、餌に頭を押し付け、味を覚えさせるということをする。きっとほとんどの人がしたはずだ。昆虫など鈍いので、容器の外に人が近づいても反応せず、開けて触ろうとすると初めて威嚇する。そう思っているのではないか。実は私も妻もそう思っていた。

拾ってきたコクワガタのコクワ氏は、トマトの入れ物に、餌としてメープルシロップを水で薄めたものをティッシュに吸わせて置いてやり、餌の上に置いてやったが、いつまで経っても、前足を突っ張り、小さいツノを最大限に開いて、威嚇のポーズをし続けているのである。腹も減っているであろうと、掴んで餌に口を近づけてやっても、むしろ逃げるのである。眺めていても動かないため、拒食症なのかしらん?ととりあえず、薄暗い玄関に置くことにした。

夕食後、歯を磨くために玄関に近づくと、コクワ氏は、餌のティッシュを抱えてちゅうちゅうと吸っているようである。ホホウ…と近づいたところ、コクワ氏、クワッと威嚇ポーズを取ったかと思うが早いか、置いてやった木の枝の裏のティッシュの下に潜り込んでしまった。

次に、風呂に入るために、薄暗い玄関に再び近づくと、ガサガサッと音がして、やはりティッシュの下に隠れてしまう。しかし、透明のミニトマトの入れ物なので、下からは丸見えなのであるが。

小学生の頃は、昆虫は何を考えているかわからないが、かっこいいし、動いているのを眺めていると楽しいという程度の感覚であった。しかし、大人になってみると、昆虫もちゃんと敵が来ているのか見ているし、その時どきで、威嚇をしたり隠れたり、ちゃんと考えて動いているということに気付かされた。

数日後、妻から「餌を換えてやろうとすると、出てくるようになったよ」と伝えられる。小型の哺乳類並には慣れるということがわかった。

一方で、我々夫婦には一つ困ったことが生じていた、家の中に蚊が出ても、ノーマットや殺虫剤を使えないのだ。下手に殺虫剤を撒くと、コクワ氏も巻き添えで死んでしまうかもしれない。小学校の頃に、我々が昆虫や亀を飼っていた時、両親も同じようなことで悩んでいたのだろう。昆虫を飼うことと、害虫をのさばらせることは、同じなのである。

「逃がすか」
「逃がそう」

我々の意見は一致し、わざわざ電車で2駅離れた森に、コクワ氏を離しに行った。コクワ氏はどう思っていたのかは知らない。クヌギと思しき木に止まらせてやると、相変わらず威嚇のポーズを取っていた。

*

そして同じ年、懲りもせずに、メスのカブトムシを飼うのである。帰宅途中に、後ろからリュックに激突し、そのまま家までついてきたのだ。

そのカブトムシのカブ江は、コクワ氏とは対称的に、餌を染み込ませたティッシュを見つけるやいなや、周りなど気にせずに抱え込んで吸いまくる超積極的な性格を見せた。その一方で、横を人が通ろうが、入れ物のミニトマトの容器を叩こうが、「餌じゃ餌じゃ、餌持ってこんかい」というレベルで餌だけに執着をする。子供の頃に見た、なんだかよくわからない昆虫そのものであった。

そして、餌に満足すると、床敷のティッシュをぶちまけ、ミニトマトのパックをかきむしって、バリバリと暴れまわるのである。

「コクワ氏のほうが可愛かったね」
「生き物って感じがしたわな」
「なんか、考えてたし」

夕食を食べていると、ミニトマトパックバリバリノイズがはたと止んだ。

「ブブーーーーーーーーーーーン」「ガッ」

食卓の上を横切り、網戸に張り付くカブ江。
コクワガタとは比べ物にならない、カブトムシパワーを駆使して、ミニトマトのパックのこじ開けに成功し、脱走したのである。

「こんだけ元気なら、どこか森まで行くやろ」

我々はカブ江をベランダに置き、彼女が飛んでいくにまかせた。
ただ、飛んでいった方向は、工場しか無いように思えたのだけれども。

それ以来、カブトムシは飼わないことにしている。