61. 知らないものがないと落ち着かない。

 知らないことは怖い。世の中の人は、みんな自分の知らないことをたくさん知っている。そう思いながら成長してきた気がする。

中学高校は、6年一貫の超進学校の男子校だった。そこで超落ちこぼれをやっていたのだが、学校に行くのは、テストのときとテストの返却時と三者面談以外は大好きで、皆勤賞をもらったほどだ。中学の1~2年の頃、すでに落ちこぼれの素質をいかんなく発揮していたのだが、放課後はかなりの頻度で図書館に入り浸っていた。

リノリウムで、上履きのスリッパがのペタペタ響く廊下から、ドアを開けた瞬間、カーペットに音が吸収されて、ブワッと音が消えるあの瞬間。ホコリと灼けた紙、新しいコーティング紙のにおい。小学校の頃から図書館は好きで、図書委員になったほどだったが、中学高校の図書館はさらに好きだった。小学校の頃には置かれていなかった文庫本も大量にあり、名前も知らなかった科学雑誌、オカルト雑誌が毎月の楽しみとなった。1日2冊借りられるという制約の最大まで本を借り、年に200冊ほど読んだ。もちろん、読みかけて挫折した本もたくさん含まれるが。サッカー部に出ている日以外は、学校を追い出されるギリギリまで図書館に入り浸り、図鑑の絵や写真をノートに模写したりしていた。これで落ちこぼれなんだからたちが悪い。図書館の日々は、中3の終わり頃、図書館移転工事で約1年間使用不可になるまで続いた。

図書館では、小学校の頃から知っていた北杜夫、松本清張、森村誠一といったポピュラーな作家とともに、星新一、筒井康隆、小松左京などの日本SF有名所を読みあさり、友達に紹介して、同級生の中でSFブームを起こした。中でも小松左京の『春の軍隊』に収められた短編『四次元オ  コ』という作品が、中学男子にバカウケしたのは予想通りだったが、私の学年で飛ぶように回し読みされた後、文庫の上部に書かれたタイトルの空間部分に、鉛筆で文字が書かれたのは非常に残念だった。

図書館が移転するまで、500冊足らずを借り、読んだわけだが、当然図書館の本の全部を読み切ることなどできない。移転完了後の高校2年の時、夏休みの自習と称して、友人と図書館に集まった。そこで後に医学部に入る成田が言った。

「こないだ借りた、フロイトの『夢判断』は面白かったわ」
「え?」

慌てて外国文学・文庫のコーナーを見に行く。そこにはフロイトの『精神分析入門』『夢判断 (上)』の2冊が有る。ほー、これかと持って、テーブルに戻った。

成田は言う
「下巻はタルいわ。上巻はおもろいで。ユングも読んだけどな、あれはちょっとイカれているわ。理解できん。いやー、将来精神科医なろかなー」
「へー…」

それまで、本は人一倍読んできたと思っていたが、外国人の、特に論文のような本を読むことはなかったのだ。同級生はもっと読んでいるのだ。そもそも成田に筒井康隆や小松左京を勧めたのは私で、彼がそこからフロイトにたどり着いたというのは、想像に難くない。

しかし、私は読んでいなかった。それまで、友人の本の話では、ほぼ自分が知っている作品しか出てこなかったと言うのに。

そこから、授業に落ちこぼれているにも関わらず、有名所の外国哲学などを借りて読んでみる。パスカルの『パンセ』は親が持っていた厚さ5cmほどの単行本、しかも上下2段のボリュームで読んだ。前半は小話のようで面白く、オー読めるやんけと思っていた。しかし、後半になるとキリスト教のことがグダグダと書かれ、眠くなる。『パンセ』を取り出した時母親にも言われた。
「それな、前半だけ読めばええんやで」
何十年も前に読んだ本を、母親はよく覚えていた。哲学は眠くなってやめた。

フロイトはツツイスト(筒井康隆の読者のこと)としては持っておかねばならぬと『精神分析入門』『夢判断 (上、下)』を購入して読んだ。しかし、夢判断は上巻の途中で眠くなってやめた。一方で、精神分析入門の「超自我」「エディプス・コンプレックス」にかぶれてしまい、そこから、なだいなだなどの精神科の本を読み漁ることとなる。まあ、北杜夫を読んでいたのだから、あまり変わらんか。

*

大学は、自分の学力よりも少々下にはなるが、県名大学の理系学部に入った。同級生の多くは、専門学校から推薦で移行してきたり、必死に勉強してギリギリ入ったというのが多く、6年一貫の超進学校に慣れていた身からすると、拍子抜けなほどのんびりしたところだった。

同級生が読む本は、大体がベストセラーものだ。

「『ぼっけえ、きょうてえ』でぇれえきになるがー」
彼らの多くは、ネイティブである。
「『パラサイト・イブ』読みおった?」
「新しいのは読んでへんわー」
「おらぁ、借りて読んだんじゃが、ぜんぜん意味わからんじゃ」
「へえ、そうなんや」
「なんでこれ売れよんかのー」

他人が自分よりも本を読んでいても、それが一部だとなんとなく認識できるようになってきた頃である。

「でよー、ミスチルの曲、ええのう」
「えっ?」

ミスチルとはなんだ?

「え?なにそれ、アルバム出てんの?」
「アルバムはまだでよらんが。どこ行ってもかかっとるじゃろ?」

Youtubeはもちろん、ネットも家にない時代である。結局よくわからぬまま、1週間後、学校近くの友人宅で『イノセントワールド』のCDシングルを聞かせてもらう。邦楽嫌いで中高を押し通してきたが、それまでのパクリ、チャラチャラ、裏声、アイドルとも違う、独特の楽器使いのバンドだ。

よく考えてみたら、K地方から大学に入るために移住したが、最初の1年間は持ってきたCD以外はほとんど聞いていなかった。ラジオは聴くものの、イナカのローカルなラジオと東京FMしか入らず、新しい曲もほぼかからない。洋楽なら任せろ(と言う割に、メタル青年だったので偏っていた)とは思っていたが、これはもう、なんとかせにゃならん。

そこで、毎週末と半ドンの水曜日は、まずターミナル駅のビブレにあったHMVの試聴機を片っ端から聴いて回るのが習慣となった。中古のCD屋を回って買いあさり、本屋に行っては、それまで読まなかった「ロッキンオン」なども一通り見ることにした。マシュー・スウィートや、ピクシーズなど、片っ端から手を出した。

それで大丈夫だろうと思っていた。しかし翌年、合宿免許で近畿の名門K大の学生、稲沢君と同室同期になる。稲沢君は、東京生まれなのにK大に入ったので、ネイティブになりきるレベルの関西弁をマスターしたという、変なこだわりがあった。そして、彼もロックマニアだったのだ。

「オアシスの2nd持ってきてるで。聴く?」
稲沢君は、持参したCDプレーヤーとスピーカーをテレビの横に置き、6人部屋の元からいた住人2人がいなくなるとオアシスの『モーニング・グローリー』ベン・フォールズ・ファイブ『ベン・フォールズ・ファイブ』などをかけて、2人で盛り上がった。同期同室にはK大の学生がもうひとりいて、ほぼ興味はなさそうだったがが、我々は全く気にせずに、音楽やカメラの話で盛り上がっていた。

そんな稲沢君、食堂で夕食を食べていたときにふと言った。
「そういえば、今回持ってこれなかったけど、ナイス・リトル・ペンギンズって知ってるか?」
「…知らん」
「そっかー、ベン・フォールズが好きなら知ってるかと思っとったわ。帰ったら探してみ。絶対に好きなやつや」
「うん、わかったわ」

納得したふうに聞いているが、内心動揺している。知らん。さすがK大生、私も聞いたことのないバンドも聞いているのだ。

帰ってから、HMVで探したところ輸入盤で安く売っていた、O県では全く注目されていなかった、ナイス・リトル・ペンギンズのアルバムを購入。ベン・フォールズとは全く違ったが、20年以上経っても愛聴盤の1つである。

*

そうやって、他人の知識量に圧倒され、落ち込みを繰り返して、年月が経った。いつしか、その知識量は、たまたま彼らが紹介された本、CDを聞いていただけであり、総知識量はさほど差はなかったのだと悟るようになった。

そうこうしている内に、しかし長い時間をかけたことで、ブックオフには全く知らない作家の作品があふれ、Youtubeができて知らないバンドが圧倒的に多く、人気も有ることを知り、世の中の全てを知ることなど不可能であるという悟りの域に到達した。

そして、100円の文庫本を買い漁り、二階の作業部屋兼書斎兼楽器部屋兼子供の滑り台部屋に溜め込むようになった。音楽はもう、Youtubeに任せた。半年に一度くらい、「ああ、家に帰れば読んだことがない本がまだある」という安心感を感じるのだ。漫画だって、買いっぱなし手つかずの文庫版がいくつか有る。探せば、CDだってパッケージを開けてもいないのが何枚か有るのだ。文庫本は順番が回ってくれば読むだろうし、漫画は暇を見つけては持ち出して、リビングなどで読んでいたりする。

また、ブックオフに行けば、これまで1冊も読んだことのない作家、バンドで溢れている。漫画なんかほとんどそうだ。ちょっとお金を使えば、一生の間、1度も重複して読んだことのない本、聞いたことのない音楽を聞いて生きていけるのだと安心するのである。我々は、砂漠の砂粒でしかない。おかげで、いつまでも新しいものに触れて生きていける。

学生と。
「この間読んだ本、面白かったけど読む?」
「いや、本読まないんで」
「あ、そう。家で時間あるときは何してんの?」
「特に何もしないっすね。ボーッとしてます」
「へー、Youtubeとか見るん?」
「全然。ユーチューバーとかうるさいじゃないですかー」
「音楽は?」
「特に無いっすね。無音」
「CDとか、ラジカセとか…」
「無いですよ」
「昔から?」
「昔から無いですよ。だって、音が出たら、近所迷惑でしょ?」
「近所…じゃあ、テレビは?」
「テレビも無いんで」
「じゃあ…ボーッと」
「ボーッとっすねー」

もったいねえなあ。