99. りふじん。

 水曜の朝は憂鬱である。行きたくないなと思いつつ、眠い目をこすりながら靴下に足を通す。

水曜日の朝は、8時45分からミーティングだ。研究員が約10名、学生が約10名。テクニシャンという補助員と、事務以外の人員が全員参加で、一週間の研究の進捗を須賀所長に報告する会である。20人分を行うため、午前中いっぱいは時間がかかるのだが、大体がどうでもいい理不尽な質疑で時間を取られる。これが本当に嫌だ。

その日は朝から小雨がぱらつく天気であった。時差出勤で1時間早く職場に入り、先週のデータをパワーポイントに貼り付けていく。以前は写真等のスキャンから行わなければならず、スキャナーが1台しか無かったので難儀したものだが、今ではデジタルでデータを入手できるため、カットアンドペーストで、ものの15分も有ればスライド1枚が完成する。他の職員のほとんどは定時が8時30分からのため、前日に用意をしていなければならず 「朝に作業できていいなあ」とよく言われるようになった。だったら早く来ればよいのだ。

ミーティングでは、年上の研究員もすっ飛ばして、私がトップバッターである。トップバッターは、須賀所長の機嫌次第であっさり終わったり、ボロクソに絡まれたりと不安定なため、知らぬ間に「ナンバーツー」とされてしまった私がご機嫌を伺うよう、気がついたら設定されてしまった。

「…という具合で、薬の効果は投与30分くらいから見られます」
「…ふーん。この後はー?」
「ネズミに投与しますよ。もう癌を作ってあるので」
「ふーん、じゃー、次」

所長の機嫌はよくわからないが、今日の私の結果は、あまり興味を惹かなかったということだけはわかった。そこへ、医師である学生が入ってきた。時計ミーティング開始から15分遅れの9時00分。

「すいません、遅れました」
「ええー?今何時だと思ってんだ?」
所長の不機嫌スイッチが入ったようである。

「あのさー、社会人のルールとしてさー、時間は守らないとダメだろようー」
「すいません」
「でさー、なんで遅れたの?」
「あ、寝、寝坊しまして」
「じゃーさー、なんで寝坊したのよー?」
「目覚しが鳴らなくて…」
「なんで目覚しが鳴らなったのよ?」
「えーと…」

所長の"なんでなんで攻撃"が始まった。これが嫌で、医師でないS大の学生は、3年に1人は辞める。研究のプレゼンでも、失敗に対して「なんでこれやったのよー?」「なんでこっちの薬使ったのよー?」と絡まれては、苦虫を噛みつぶしたような顔になる研究員も多い。その日も結局妥協点が出ないまま、嫌な気分でミーティングを終えた。

*

ある週末、家の近所の100円ショップに向かった。「声が聞き取りやすいイヤホン」というのが、非常に良いらしいとネットで見て、試しに買ってみようと思ったのだ。イヤホンは電気関係のコーナーであっさり見つかり、ついでにと布製のブックカバーや風呂の掃除ブラシなどを物色するため、店内をうろついていた。ブックカバーは布コーナーか、それとも布コーナー?オシャレ雑貨コーナー?などとブツブツつぶやきながら歩いていた。

「ママー、おしっこー」
5歳位だろうか、男の子が母親に訴えている。
「…なんでさっきトイレ行っときって言ったのに、行かなかったのよ!?」
「おしっこ…」
「ねえ、なんで今言うの?なんで?」
「…ううぇえーん」

わかる、わかるよ少年。

「ねえ、なんでなの?なんでさっき行かなかったの?」
男の子は泣いているだけで答えない。しかし、その追い打ちは必要なのか?早くトイレに連れて行け。

「もーほんとに、もー、嫌になる、この子はもー!」
母親は、カゴいっぱいに詰め込んだ商品と子供を交互に見ると、カゴをそのまま床に放置し、子供を連れて店の外に出ていった。

男の子に「なんで?」と聞くことで、あの母親はどういう答えが欲しかったんだろう?5才児からしたら、せいぜい「だって」の一言くらいしか言えない。

*

大学院の修士時代、理不尽人間、あえて言うならミス理不尽がいた。その名もりーふじん、R夫人である。留学生であり、名前からわかるかもしれないが、あえてRとさせていただく。

近隣の研究室での任期が切れ、高級ポスドクとして雇われたのだが、不幸なことに彼女の実験には再現性がなく、不確実。つまり実験が下手だった。それだけなら良いが、他人のせいにするのだ。

「薬が効かなかったのは、K君が培養機を勝手に開けたせい」
「大腸菌が生えなかったのは、だれかが私のプレート(シャーレのこと)を、外に出していた」

ミーティングのたびに「他人のせい」が繰り返される。2ヶ月もすると、教授もとんでもないのを取ってしまったなあということに気が付き始めていた。

ある日、その火の粉は、われわれ学生にも飛んできた。

「うまくいかなかったのは市川君が、私の培養中に私の細胞を出して揺すったからだ」
実験のうまい市川が反論する。

「そんな事するわけ無いでしょう。あなたが飼っているのはマウスの細胞。僕の飼っているのは昆虫細胞で、インキュベーター(培養器)がそもそもちがう」
「この間、市川君が、私のインキュベーターを開けているのを見た!」

助手のKさんがなだめにかかる。
「あのさーRさん、市川君がインキュベーターを開けたかどうか、わしゃ知らんけど、細胞を揺すっただけで、実験失敗せんがな」
この「わしゃ知らんけど」で火がつく。

「私ハネー、アナタ方よりも実験の経験があるんデス!この作業した後、細胞触る、失敗スル、知っテル」
エキサイトしてくると、日本語が怪しくなってくる。教授もいつ止めたものだかという感じになってくる。

後日、私も被害に有った。R夫人が大声で騒いでいるのが聞こえた。
「DNAを切る酵素がおかしい、EcoRIとHindIIIを誰かが混ぜた。EcoRIを最近ツカタのは武井君!」
助教授のMが苦笑いしながら私のところに来る。

「あんなことゆーとるけど、武井君、知らない?」
「EcoRIは使いましたけど、HindIIIなんか普段使いませんよ」
「EcoRIは普通に使えとる?」
「○月○日に最後に使ってこんな感じで、ビシッと1本に」
「HindIIIなんかつこてないよなー」

「なあ、Rさん、武井君はHindIIIなんか使ってないからちがうらしいぞ」
「だから、武井がわざと混ぜた!」
だいたい、実験中にも2つを過って混ぜるようなことをしない。結局R夫人以外は誰ひとり私が原因と思うことなく、半日ほどの騒ぎで話は収束した。

*

修士論文もそろそろ書かねばならないかという年末の夕方、博士課程の藤沢さん、ポスドクの八潮さん、上の階の研究室の三浦さんと、我々修士課程の市川、野田と私、武井の6人で、研究室のお茶部屋で飲み始めた。21時を回った頃か、もう食べ物は乾き物だけ、飲み物も蒸留酒とワインをちびちびというフェーズになった時、八潮さんが話しだした。

「なあ、知っとる?R夫人」
「なに?またRさんが何かやったんか?」
沈没仕掛けていた三浦さんが目をこすりながら、椅子から起き上がった。

「R夫人の車、マークIIな、ボロボロやろ?知っとる?」
「ああ、石段の角とかにガリガリこすっとるよな」
三浦さんは何かを察したらしいが、自分の車に関する話ではなさそうなのでまた沈没仕掛けた。八潮さんが続ける。

「こないだな、下の階の助手のKさんがな、前の通路のところに車を置いてたんやけど、Kさんが車から降りようとしたら、ガン!って」
「うひゃ。お、とうとうぶつけられたか」
三浦さんは自分の車でないと面白そうだ。

「そしたら、R夫人、逆ギレして『そっちが下がってきたんでしょ!』って言い始めて」
「あああ、アホちゃうか。エンジン切って、サイドブレーキしとるんやろ?」
「ドア開けて出てきてからやで」
「いやー、やっぱりかー、絶対あのマークII危ないおもとったんや。近くに置かんようにしよ」
「三浦さんのハイラックスは、ぶつけられても平気でしょー」
三浦さんはワインを一口飲み込んだ。

「いやいや、おまえ、なんぼしたと思とんねん。ローンで大変なんやぞ」
「でも、乗るのは三浦さん一人ですやん」
「そうやで。今日も置いて帰る。飲んだし」
「歩いて帰れるんなら、車いらんでしょ」
学生の三浦さんいじりは、ある意味、重要な酒の肴である。

しばらく、サッカーの話題、オウンゴールの話などで盛り上がった。

「ところでさー、R夫人なんやけど」
八潮さんが話し始めた時、全員がまたR夫人の車の話を蒸し返すのかと思った。

「車は、出禁にせえや、な」
「そうじゃなくて」
「何?」
「給料、二重取りしてるらしいで」
「ナニ?」
その場の空気が、明らかに凍りついたのがわかった。

話の内容としてはこうだ。どうやら留学してきた時、J財団から、月に40万円の給料が5年間支払われることになった。それでJ財団と大学の共同研究施設に入ったのだが、そこを1年で退所。O大学のI研究所に配属され、そこも3年で退職。今の研究室に来たというのだ。

「ていうことは、ここの給料だけでなく、まだ40万が支払われとると?」
「せやで。だから今の給料、月に80万」
「80万!? ワシの給料の倍以上やで。ハイラックスのローン、1年で返せるがな」
「三浦さん、月どれくらいですのん?」
八潮さんがウイスキーを舐めながらいう。
「いや、八潮、それは言われんな」
「ボク、22万ですわ」
「いやいや…そういうのはな、言うもんやないな…」

我々学生は、一銭ももらってないので、ストレートに不満が噴出する。
「まじかー。月に80万貰ってるやつに、『実験のジャマした』とか言われてんのかよー」
「8万でええから我々に渡せっチューねん」
金の恨みは恐ろしい。

「でさ、それって合法なんか?」
「知らん。でも今年が初年度やから、そろそろバレるんちゃう?」
「あー、年末調整とかあるしな」
八潮さんと三浦さんは給料をもらっているので、何かにピンときたようだ。

「でも、あれに80万はあかんやろ」
「世の中、理不尽や」
「R夫人だけにな」
全員、完全に酔いは冷めてしまった。

その後、年度がわりにR夫人は給料が激減したということに立腹、O大学の事務に泡を食って食ってかかったものの、過去の二重取りが問題視され、免職となったということだ。