6. まずいケーキ。

一.

 小学校まで、ケーキが苦手だった。正確に覚えているのは、5歳頃から小学校までだ。2歳後半から記憶のある私としては、それまでを覚えていないのではなく、それまでは美味しいと思っていたのだろう。小児科で処方されるピンクや茶色い風邪薬シロップも、3歳位は喜んで飲んでいたが、5歳位で急に「甘すぎてまずい」と感じるようになったので、その頃に味覚の変化があって、ケーキも同様に感じるようになったものと予想する。

小学校くらいまで、我が家はクリスマスにはホールケーキだった。最寄りの駅前の某チェーン店のケーキ屋で買っていた。当時の値段はよく知らないが、現在でも3000円はするので、2000円くらいはしていたのではないだろうか。食べ物としては、結構な高級品である。それが嫌いだった。

あの甘さの感じられない、まったりとしただけのクリーム。甘くもないイチゴは許せるとして、砂糖以外の味を感じないチョコレートの板、歯が痛くなるレベルに甘いだけのチェリーと砂糖のサンタクロース、正月なんだか仕出しの弁当のような緑色のプラスチックの飾り。極めつけが、台所のスポンジかというような、味のないカステラ部分。大体のデザートは即日無くなるのに、家族4人でかかっても、4日も5日もなくならず、ずっと冷蔵庫の上に置かれて、食べ残りのクリームの残骸に、より固くなったカステラは、ケーキというものにトラウマしか残さなかった。プラスチックの飾りは、洗って貯めてたけど。

毎年一応、ケーキを買う前に「どれが良い?」と聞かれたが、いつもアイスケーキを指名していた。アイスケーキは1年だけで、1日で食べきった。アイスケーキがとてもおいしかったという理由ではなく、万年満杯で、カップアイスすら入らない我が家の冷凍庫において、残すと保存する場所がなかったためだ。ただ、あのときだけは、家族全員「美味しい美味しい」と食べていたことを覚えている。

ケーキ恐怖症、いや、正しくは、"白いケーキ"恐怖症である。ついでに、砂糖を固めた菓子も苦手になり、今だに落雁などは遠慮している。夕方の駅で、おもむろにお供え物のようなピンクの落雁をかばんから取り出し、食べ始めたOLを見たときは度肝を抜かれた。

さて、中学に入り、両親はホールケーキをやめた。チェーン店のケーキも買わなくなった。しかし、カットケーキを選ぶとき、やはり白いケーキは避けてきた。そうやって食べたケーキは、びっくりするほど美味しいというものはなかったが、まずいと感じることは無かった。年齢に応じて、自分の味覚が変わったのであろうと思っていた。もしくは、希望的には、世の中からまずいケーキは消えたのだと。

大学四年、いや、関西だったので、大学四回生のクリスマスの12月25日、たしか冬季オリンピックでジャンプで原田が金メダルと湧いていたときだった。研究室の年末の大掃除の後、当時のケチで有名な助教授、今で言う准教授が、突然「クリスマスだしさ、ケーキくらい買ってきてよ」と、珍しく5000円を出したのだ。車通学の友だち高梁くんの車に修士の先輩2人と便乗し、大学周辺で思いつくケーキ屋を当たるが、当然のように売り切れ。ラジオから流れる、そろそろ終わりそうなマライヤ・キャリーの"All I want for Christmas is you"、Wham! "Last Christmas"を尻目に、我々買い出し班は焦り始めた。もうこのまま、知らぬふりして飲みに行くか?という話が自然に出る。

もう何軒目だったか、とある大型スーパーで、あの「某チェーン店」を発見した。「♪明日へ振り返らずに」という前向きなのか後ろ向きなのかわからないテーマソングのかかるスーパーの片隅、某チェーンのホールケーキは2500円。選びようのない白いやつである。研究室に帰り、在籍者で割ると約15度、一番外側で3cm程度のうすっぺらい切れ端は、小学校の頃から変わらないあの味だった。Amazonで「割に合う製品でござる」という商品が流行っているが、2500円の割にあわない。スーパーの一般の売り場に売られていた300円カットケーキを8個買って、丸く並べたほうが良かったのではないか、と思いついたのは、その2年後である。

二.

もう一つのまずいケーキの思い出というと、大学三年のときの話になる。

大学三回生の6月、中学からの友人である寄居(よりい)が亡くなった。彼が亡くなってから半年、冬になっても部屋が片付けられなかったため、寄居の両親は部屋を借りたままにしてくれていた。その部屋で食べたケーキだ。

部屋の鍵は、寄居の姉と寄居の家に居着いていた、いっちゃんという同級生の女性に預けられており、我々はいっちゃんを呼び出せば、自由に出入りすることが出来た。

現役で、私より一年早く国立のK大学の経済学部に入った寄居は、4年間、いや3年と2ヶ月、実家から通えるにも関わらず、K市のど真ん中のオートロックのマンションに部屋に住んでいた。中高6年の間男子校だった我々は、夏冬の帰省時には、当然のように、駅や街なかからほど近いその部屋に集まり、キーボードを弾き、NeoGeoで対戦し、ダイヤルアップのインターネットで怪しい情報を探し、麻雀をし、一晩中だべっていた。いっちゃんはそんな男ばかりの部屋に、まったく自然にネコのようにいついて、勝手に寝て勝手に何かを食べていた。いっちゃんはあくまでもいっちゃんであり、確か本名はいずみだったと思うが、我々は苗字すら覚えていなかった。彼女は、芦屋の方の社長の娘だと聞いていた。

さて、その冬。寄居が亡くなって半年、帰省した私は、ダメ元で寄居の家に電話をかけた。すると、自然にいっちゃんが出たのだ。

「ああ、武井くん。今帰ってんだ?」
「あれ?いっちゃん、まだ電話有んの?」
「まだネット使えるし、卒論ここで書くことにしたし、寄居くんの両親もいいよって」
「太っ腹やな」
「ところで、部屋の物を減らしたいからさー、来て何か持って帰ってよ」
「あーはいはい。わかった。明日の昼過ぎていい?」
「いいよー。夕方からカテキョーだし、それまでなら」

翌日、街なかを少しぶらついてから、寄居の住んでいたマンションに向かう。そして、手ぶらで行くのもなんだし、となにか食べるものを買うことにしたのだ。

いっちゃんは、このあと家庭教師のバイトだというから、酒はまずいだろう。時はクリスマス、いっちゃんも女性だし、甘いものが嫌いではなかろう。ではケーキでも買うかと、そう考えたのがすべての間違いだった。きのこのマークのコンビニエンスストアで、多少振っても壊れない入れ物に入った白いケーキとパフェのようなものを買った。

寄居の家では、スーツを着たいっちゃんが待っていた。
「家庭教師にその恰好なの?」
「うん、午前中は企業説明会だったし、あと今のカテキョ気合い入れてるし」
「どゆこと?」
「志望校に入れたら、ボーナスがもらえる」
「まじでか」
「50万…くらいかな?100くれないかなーと思ってるんだけど。先輩はもらってた」
「すげいな、さすがK大効果。ウチの大学だと、お食事1回がええとこ」

寄居の部屋は、ダイニングキッチンに置かれていた熱帯魚の水槽はなくなり、棚は撤去されて床に大量の物が積まれている状態だった。リビング兼寝室の1/3を占める3段の音楽用キーボードとラックはそのままだ。友人の家に泊まることは少ないにもかかわらず、知っているだけで3軒に家にキーボードラックがあった。当時は流行ってたのか?

「音楽関係は、だいたいお姉さんが持っていくって。本はほとんど捨てたかな」
「これで?」
「これでも減ったんだよ。こっちの部屋(ダイニング)なんか、入ったことないでしょ?」
そうだった。ダイニングはリビングからトイレと玄関に行くための2mほどの隙間と、ほとんど使われなかったキッチンへの獣道以外、物で溢れていたのだ。

「あ、そうそう、クリスマスだからケーキ買ってきたわ。コンビニやけどな」
「わーい、でも食器ないよここ」
「フォークくらいないの?」
「うーんとねえ…割り箸なら」
「まじかい」
「紅茶なら出せるけど」
「じゃあそれで」

お茶を入れてもらっている間に、遺品を漁る。遺品を選ぶというのもなんなので、邪魔そうなCDの山から10枚ほど、あと、高校の音楽室からパクってきたものであろう、Boss DR-110というリズムマシンをもらっておくことにした。

「おまたせー」
紅茶がウェッジウッドのカップで出てくるところが、この部屋のよくわからないところだ。しかも傷だらけ。

ところで、この部屋にはテーブルなどというものがないのである。
寄居は当時から、ヤマハSY-77キーボードのフロッピーディスク差込口の上ととPCデスクのOAラックの小さな隙間をテーブル代わりにして、パスタなどを食べていたのだ。我々はやむなく、床にウェッジウッドとコンビニケーキを並べ、割り箸を割る。何なんだこの風景。

いっちゃんは、コーヒーゼリーの入ったパフェのようなものを取り、食べ始めた。私は当然、残った白いケーキである。まずい。そうだ。ちゃんとした店で買わないと、白いケーキはまずいのだ。

「あんまりおいしくないわ、これ」
「あははー、お箸で食べてるからねー」
「ちょっと食べてみ」
「うーん、こんなもんじゃないの?」
「そうかね」

とりとめのない話をしながら、適当に取ったCDを見る。エディ・マーフィー主演の"Boomerang"や"Menace II Society"のサントラ、ほとんどがHip hop系だ。かと思えば、2枚組のBeatなんとかというのも有る。100曲以上入っているが、どうやらドラムフレーズのサンプリング用CDらしい。その間に、なぜかケースのないBeatlesの"Let It Be"のCDが、ボロボロの歌詞カードにはさまっていた。

「あ、ビートルズ。傷だらけやな」
「そんなん有ったんやねー。お姉さんのかな。寄居くん、そんなん聴いてないと思ってた」
「あいつ、家では何聴いてたん?」
「さあ?寄居くん、なにか聴く時はヘッドホンしてたし、私は自分で持ってきてた」
「付き合ってたんちゃうの?」
「付き合ってたっていうんかなー、あれ」
いっちゃんのストッキングの膝がまぶしい。

いっちゃんは、私が残したケーキを平らげた。
「ごちそうさま。また何か取りに来てよ。4月にはぜんぶ捨てるから」
「まあ、4月までなら、もう無理かな」

「ケーキおいしかったよ」
いっちゃんは、屈託のない笑顔で私に言った。