35. 週末のプール。

 長年寝かせていた大槻ケンヂの『くるぐる使い』を読み終え、二階の書斎兼楽器部屋兼…色々ガラクタ部屋で本を選ぶ。本は、ほぼブックオフの古本であり、結構な数が積ん読だ。文庫本ばかり複数のカラーボックスの前後2列、その上の隙間も詰まっており、そろそろ限界になってきている。文庫本専用棚も1つあるが、ぎっちり詰めたら、棚板がたわむのである。1段に何冊置ける設計になってるんだ?

大槻ケンヂ『くるぐる使い』は、人がいろいろな過程で壊れていく短編集である。別の著作を読んだときに、どうにも作品のテンションについていかなかったので、買ってから20年以上放置していたのだが、17歳や中学生の青臭さが鼻にはつくものの、なかなかどうして、面白かった。

さて、次の本。世は2020年3月。新型肺炎の蔓延で、3月第2週までの楽観的な見方が、1週間で暗転。理論をこねくり回した海外SFもきついし、エッセイも避けたい。では、軽く読める小説が良いかなと、日本人作家の、あまり厚くない小説を適当に取り、ブックカバーに納めた。

翌朝の電車。さて、何だっけ?ハヤカワSFだっけ?と本を開いたら、伊坂幸太郎の『終末のフール』だったのだ。冒頭、老夫婦がマンションの前にある公園で会話する。「あと三年で終わりですからね」。

何が終わりかと言うと、あと3年で小惑星が地球にぶつかって、壊滅的な被害が出て滅亡するのだ。人々は働くのをやめ、学校に通うのを止めている。目に見えない恐怖と焦燥感。物が足りなくなるが、細々と供給されて生活はできる。まだ家に残っている人々は、半分諦めたように日々を過ごす。

なんだか今の雰囲気とよくにているではないか。そして、こういう感覚は以前にもあった。

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2011年3月。震災の余震におびえつつ、物流やガソリンが不足し、スーパーから保存のきく食べ物や水が消えた。その時、ちょうど読んでいたのが、篠田節子『家鳴り』であった。人間が怖いホラー短編集なのだが、その中に大震災でインフラが止まり、物が足りなくなって、住民同士が食料を奪い合うという作品があったのだ。現実はそこまでひどくなかったが、震災の表現や停電の描き方の現実との類似に戦慄を覚えたものだ。

自分の人生、偶然だとは思うが、良くも悪くも絶妙なタイミングで手に入れたり、手に取ったりというものが多いようだ。

2月の初旬にゲーム機Wiiを貰い、WiiからニンテンドーDSも購入したのも、良い意味で偶然が重なった。当初、公園程度の外出は良かったはずが、本格的に外出禁止となり、子供はなわとび以外で外に出られなくても、DSの『トモダチコレクション』で作ったキャラクターの言動に一喜一憂して暴れないし、大人も幸い、外出自粛勧告前に仕入れまくった『Wii Fit』や『ジャストダンス1, 2』、『太鼓の達人』を30分もやれば、家の中でもうっすら汗をかく程度の運動ができる。

そういえば、震災の1年ほど前にも、バッテリー駆動が売りのネットブックと、iPod Touchを手に入れていて、いつ停電が起こるか、余震が来たときに震源地はどこかなど、調べることに利用していた。当時はスマートフォンはまだまだマイナーだったのである。

では、その前の大変なイベント時にはどうだっただろうと考えるも、そもそもその前の大変なイベントってなんだっけな?2001年のアメリカテロ?阪神大震災はどうだっただろう。おそらく、それらのときにもタイムリーな内容の小説や映画を見たりしていたのではないかと思う。それらの当時は危険もなく、外出はしまくっていたので、暇つぶしはなかったと思う。

さて、新型肺炎であるが、全人類の6~8割が当該ウイルスに対する免疫を持った時点で、ひとまずの収束となるそうである。これまで無視され続けてきたウイルスのワクチンが作られ、その後は「ちょっとしたカゼ」に落ち着いて、共存していくのだろう。

世界が終わる小説なんて、家にだってたくさん有る。小松左京だけでも『日本沈没』『復活の日』『こちらニッポン』などなど。短編も含めると、数十はくだらないくらいあるだろう。病気が流行ったり、核戦争、隕石が落ちてくる、謎の宇宙人に侵略される…。文明が死ぬ話だってたくさんある。何度も読み返しているので、何度大地震が起き、核戦争が起こり、病気が蔓延し、人が消えたのかなんて覚えていない。

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帰り支度をしていると、所長が居室の学生の椅子に座り、再任用の職員と喋っている。

「BCGもね、効くかもしんないだよねー」
何十年も前に打った、標的も無いワクチンなんて効くわけ有るかっつーの。実際には数ヶ月前に打ったばっかりの幼稚園児にも感染確認されとるわい。

「これから4月で、どれくらい患者が出るんだろうねー。気がついてないだけで感染者がいっぱいいるよねー」
映画なら一番最初に感染して死ぬやつのセリフだぞそれ。

「売り切れないうちに、米くらい買っとこうかなー」
それも死亡フラグなセリフだな。

「今週末は山に行く予定があるんだよねー。山は外だから大丈夫だよねー」
「この騒ぎが終わったら、スイスのアルプスに登ろうと思ってるんだよー」
「来週都内で会議なんだよねー。車で行こうかなー」
ピンポイントで死亡フラグを踏み抜いていく。

何か、この人といると死にそうだ。

『終末のフール』に出てくる、何があろうと動じない、天体オタクの二ノ宮に会いたくなった。早く電車に乗ろう。小惑星がぶつかって、地球が粉々になる瞬間を、我が目で見るために望遠鏡を覗くのだ。

しかし、本当の世界の終わりは、静かに、じわじわと、霧雨のときにスニーカーが濡れていくようなスピードで、くるのではないか。ただ、今がその時ではないのはわかっている。