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それに近づくヒント

今年から新しい試みを始めることにした。徐々に担当する生徒の人数が少なくなっているため、これまで家庭教師で担当した諸君に伝えてきたことをデジタル空間での発信内容にも盛り込んでいこうというものである。やや回想的な口調になることがあるかもしれないが、その時にはその内容とともに「担当した生徒に伝えたことであった」ことを付随して書くと思うので大丈夫だと思う。今日はそのうちの「尊敬している人の近くにいるために」という内容。今年の2月のどこかである生徒とそのことで雑談をしたことがあった。以下が、それを踏まえてスマートフォンの下方にある四角い領域内を指で縦横にいじくり回して書き留めたものである。この文章は(この文章だけでなく、自分のSNSの発信すべてと言ってもよいが)次世代、特に中学生・高校生に向けて書いている。だからここではそのようなティーンエイジャーに向けて、微量ではあるが自分のこれまでの経験から導き出された考えを記すようにしている。10代のきみたちに「これだけは絶対に伝えておかないと!」と自然的に感じたことしか基本的に発信しないようにしているが、教える側の「余計なお節介」や「持ち出し」で教育というものは成り立っていると思っているので、口が酸っぱくなるぐらいここに記して読者に伝えようとしているのだ。「自分が言いたいこと」ではなく「次世代には今のうちに『人間的に』伝えておかなければならないと感じること」を。
これから20代に突入する次世代だけでなく、この文章を書いている自己への内省も含めてここに記した。

【それに近づくヒント】尊敬している人と同じインプットをしないといけない。だが、クソ真面目に「どんなインプットをしてますか?」「どんな本を読んでいますか?」と直接質問するのはよろしくない。(個人的にはそう思う。)まず、このような形で問いを投げられたら「そういう質問しかできないぐらい自分で考える習慣が欠落していて、かつそのことにも当人は気付いていない。『教わる』以前の問題ではないかしら?」と相手からは瞬間的に(かつ大抵の場合は無意識的に)スクリーニングされると思ってよい。
もちろん、質問の主が100%悪いという訳ではないことはしばしばある。だが、それまでの自己の受けてきた教育を歴史的に参照して「大事なことを教えてくれていたはずの大人が発した言葉に耳を傾けてこなかった」のか「誰かが(親でも友達でも知らないおじさんでも隣のクラスの山田くんでもいい)自分に投げかけた言葉を素直に聞かなかった」のか「そのような大事なことを今まで誰にも言われてこなかった」のかはよく考えたほうがよい。いずれにしてもそれは「気づかないといけない」シグナルが目の前で発せられているときに、「気づけなかった」ことが原因である場合が多い。もちろん、その人の置かれた環境がよろしくなかったのもあるやもしれぬが、最優先的に検討すべきは「自分でコントロールできることだったのか、そうではなかったのか」である。例えば、親がバカなのはしょうがない。だが、仮にそのような場合であっても「このような人にならないようにするためにはどうすればよいか?」と自己へ問いかけることはできるだろう。
今まで「勉強」してこなかったことや自分でそのこと自体に気づかないぐらいの「人間らしさ」しか備えていないこと、自分に「教わる人を選ぶ力」がなかったことは少なくとも熟慮するべきだ。(説教っぽい?)ここでいう「勉強」はもちろん学校教育で行われる(受験で必要な科目の)テストで点数をとるための勉強ではないし、「人間らしさ」とは「性格がいい」とか「喜怒哀楽があって愛嬌がある」という次元の話でも同じ類のものでもない。
耳にタコかもしれないが、「勉強」も「人間らしさ」も親切・思いやり・成熟といった言葉で表されるものの代表選手である。それは「つながり」と言い換えてもいいかもしれない。中にはつながりという言葉を自己利益の増大のために肥沃化させて「精神的に未熟化して相手とコミュニケートしようとする」人も世の中にはたくさんいらっしゃるが、ここでいう「つながり」はそういう人が口にするツナガリではない。10代の諸君にっては何を言われているのかさっぱり分からないかもしれないが、当分の間は「世のため人のため*に自分には何ができるか?」を考えておけばよい。具体的に言ってしまえば、「重そうな荷物を持っている人がいたら、声を掛けて手伝う」「輪の中に入りづらそうな人がいたら声を掛けたりその人に話題を振る」「担任の先生の負担を最小限にするために、その先生の手伝いをする」など。ここに「してあげている」という気持ちが湧いてくるようであれば、まだまだ修行が足りないと判断してよいでしょう。「人間らしさ」を備えた人物ならそれはやって当然だというパラダイムが自然発生的に生じるのだから。(嫌な人には協力しないかもしれないけど。)学校生活という定刻枠内の世界でその実践練習をしておくといいと思う。
(*ここでは「目の前の相手や世のため人のため」にと書こうとしたが、今は昔の世界と違って「人を見る眼」が必要な世の中になってしまったので、このように表記した。この文章を読むようなマニアックなティーンエイジャーの目の前に現れる人はたぶん「いい人」だと思うから問題ないと思うが、念のため。)

そうすれば、自然と物事に興味を持って行くだろう。

だいぶ脱線してしまったが、「尊敬している人と同じインプットをしないといけない」ことに話題が戻ってきた。これだけ長い前置きをしたのは、インプットと一言でいってもそれを行う当人が考えるべきことは「インプットについてだけではない」からである。ここに「インプットをしようとばかり考えていると、視野が狭くなり世を俯瞰的に眺められなくなってインプットをしようとばかり考えるようなインプットしかできなくなる」というメビウスの輪のような逆説があると言ってもいいかもしれない。
話をもとに戻そう。
尊敬している人と同じインプットをしないといけないが、クソマジメな質問はしないようにしたい。(もちろん、恥をかく経験はとても大事だと理解した上で。)
では、どうすればよいのか。
もちろん「正解」などないのだが、まずは、その人の言葉に耳を傾ける。そうすれば、聞こえてくるでしょう。(カエルの歌のように。笑。)よく聞く(またはよく読む)と人物名や著書名、さらにはそれらからの引用、参考文献、資料などが耳のフィルターに引っかかる。ここでは「しまった。この引用された本を今まで読んでいなかったなんて、なんて自分は愚かなんだろう。下半身のテント以外に、今までどんなアンテナを張って生きて来たんだろう」と(過去の自分に対して)内省する。ここで重要なのは「この人物や本からの引用があった。これから読もう!」と思うか、「“知っていて当然の”知識が自分にはなかった。帰ったらすぐに読まなければ!」と思うかである。実践を伴うのには相当な労力が要求されるが、前者の状態から後者へと徐々に移行していくのが望ましい。(もちろん、可能であれば前者から後者にすぐ切り替えるべし。)すべては、尊敬している人の近くにいるために。

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