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自由と自己責任

映画「バス男」。

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プロム(高校卒業パーティー)に出席するため、車の調達に奔走する田舎の男子のコメディー映画。私は「どうして、学校主催のパーティーに自力で行かなければならないのか。」と思った。出席は義務付けられていない。したくなければしなくていい。自由だ。しかし、出席するなら自力で来いと言う「自己責任」を強いられる。社会主義機構がそれなりに浸透している日本から来た私が違和感を感じたのはこの自由主義に伴う自己責任だった。

各個人が利己的に行う経済活動にはラッキーな副産物として、「思いがけない社会貢献」という要素が含まれる、と言うアダムスミス国富論。その内の「それでも資産作りは倫理の枠を出ない範囲で」と言う箇所を飛ばしウィンウィン論理やトリクルダウンなどに発展させ規制緩和を推し進めてきた新自由主義。

それが「要らない」と言う自由が効かない分野まで侵食しているのが今の米国。医療、教育、住居、最低限の食料。「"お金がないので要りません"と言えないもの」も自己責任の対象になっている。

いつも散歩に行く公園。そこを囲む形で路上生活者がいる。テントが張り巡らされている。公園の周りはある程度の高級住宅街で、高級車が止まっている家の目の前の無数のテントははっきり言って壮観だ。住む場所もない人達の前にあるテスラ。

今日そのテント達が警察によって撤去されていた。それ見ながら娘は「あの人たちはどこに行くのかな。」と言った。ご近所情報アプリでは、彼らの行き先は一応どこかの広場を設定してあると。「空気は、タダだよね?だってなかったら死んじゃうもんね。お家もタダが良くない?みんなでちょっとずつお金を出し合って彼らが住める大きいお家を買えるといいね。」と言った。娘は「みんなでツリーハウスを作ろう!」と言った。

出席は自由とは言われても、友達全員が行く卒業パーティー。そこに行きたいと思うことは「贅沢」なんだろうか?

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