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僕がサポーターやってるワケ①(高校生の村田)

最近いろいろあって、そして自分でもなんか忘れかけた気がして。

もう一度思い起こすために書いてみました。まあゆっくり聞いてやってください(笑)

サポーターをやるきっかけになったのは高校生の時でした。3年生の時クラス替え。明らかに「成績」で分けたクラスでした。僕はその前の年を含めると、「成績のよいクラス」「そうでないクラス」どちらも経験しましたが。前者はとても丁寧な授業でしたが、後者はほぼ授業になっていませんでした。後から知ったことですが、このシステムは進学実績を作ろうということだったそうな。

当然「私らはレベルの高いクラスやから~」といった生徒さんも。先生もクラスによって温度差を出したり、「あんたらは〇組だから~」と言われることもありました。ある生徒さんは「比べられるのは嫌です」と学級日誌に書いてました。しかしそれに触れられることはありませんでした。僕はそんな雰囲気に馴染めませんでした。なんでそんなことするんやろう。みんなが怖かったです。だれを信用していいのかわかりませんでした。

ある日学校にて。台風の日でした。雨風が強いなぁ。心配になって友達から携帯を借りて調べました。(その時自分は持ってなかった)「夕方から強い暴風雨。極力外出は控えるように。」とのこと。でも授業が終わるまで帰してくれませんでした。夕方予報通り強くなってから「授業終わったので帰りなさい。」友人は携帯を没収されました。「大切にされてないんだな。」と思った日でした。

でも一生懸命寄り添おうとしてくれた先生もいました。僕は父が他界して、現在でも母は精神状態が安定しません。大学に行くのは絶望的な状況でした。そんな中で担任の先生は一生懸命大学を探してくれました。でもね。「お前は先生らの甘い言葉を期待してる!」「そんなんで大学いけん!」といった教員もいました。

僕を知ってるみなさんはよくご存知だと思いますが、けっこう波のある人間です。だから頑張れるときとそうでない時がありました。たくさん出される課題。自分は人から強制されるものは全くできませんでした。「あんたなんかよりも、他の〇百〇十人に時間割いた方がええんや!」と言われたこともあります。

家は前述のとおり安定しない状態。そして学校は怖い場所でした。自分にとって「居場所」はどこにもありませんでした。この世界が怖かった。この世から去ろうと思ったことはよくありました。でもそうならない間に卒業を迎えました。合格を出してくれたのはたった一校。それが「龍谷大学社会学部コミュニティマネジメント学科」でした。

今かかわっている子どもたちには、絶対にこんな思いをしてほしくありません。でもその当時の僕は何をしたらよいのかわかりませんでした。

⇊続きです。


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