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そんなに50年代が憎いのか?

映画『シェイプ・オブ・ウォーター』を観た。

実に結構な話だった。米ソの緊張高まる60年代初頭を背景に描かれる唖者の女性と半魚人との異形の恋物語。全編にレトロなムードを漂わせ、公然と罷り通っていた黒人女性や同性愛者への差別もテーマに織り込み、寛容の精神を説く。アカデミー賞受賞も納得の、文句のつけようのない出来映えだった。

だが、どうにも引っ掛かるところがあった。
マイケル・シャノン演じる敵役、ストリックランドと彼を取り巻く描写だ。朝鮮戦争に従軍したストリックランドは立身出世しか脳にない画に描いたような堅物軍人。ソヴィエトのスパイ任務を帯びたホフステトラー博士(マイケル・スタールバーグ)に半魚人の生体解剖中止を進言されても「ヤツに感情があるだと? そんなものは"Gooks"にだってある」とご丁寧に言い放ってみせる。"Gooks"というのはクリント・イーストウッドが『グラン・トリノ』劇中で用いたことでもお馴染み、アジアでの戦争に従軍した米兵が敵兵に向けた蔑称だ。そんなストリックランドも家に帰れば良き夫であり二児の父でもあるが、このノーマン・ロックウェルもかくやというほどの当時の模範的家族を描いた場面は寒色で統一された映画内で異彩を放っている。まるで主人公・イライザ(サリー・ホーキンス)や孤独なゲイの画家・ジャイルズ(リチャード・ジェンキンス)と敵対するかの如く、露骨な悪意を持って。

事情は分かる。
現代の観客にとって60年代初頭のアメリカなどというのは遠い昔話だ。特に本作のように寓話の形を取っていても社会に蔓延る不寛容をテーマにする際は、当時公然と存在した有色人種や同性愛者に対する差別は描いても描きすぎることはない、というのが現代ハリウッドの共通認識なのだろう。そのような側面を徹底していくとストリックランド個人が単に悪人ということでは不十分で、彼を取り巻く環境、ことに表面は暖かみを醸し出しながらその実主人公たちのようなマイノリティを疎外する役割を果たしている当時のアメリカの一般的家庭まで悪として描かなければいけないということになってくる。

私事だが、この映画で描かれた年代のアメリカには個人的に非常に愛着を持っている。
中学生のときにエルヴィス・プレスリーやニール・セダカのオールディーズに惹かれ、同時期にCSで放送されていた「トワイライト・ゾーン」(1話完結の米国版『世にも奇妙な物語』、後に映画化もされた)にかじりつき、ビリー・ワイルダーやヒッチコックの映画を貪るように観て、大学ではデイヴィッド・ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』を読んで赤狩りを卒論のテーマにした。なので、50年代から60年代初頭、ケネディ暗殺くらいまでの年表は全て頭に入っているし、自分が実際に生きてきた21世紀の日本より親しみが持てるくらいだ。
ストリックランドが構える家庭は文化的にも立地的にも典型的なサバービア(郊外)に位置するのだろう。詳しくは大場正明氏『サバービアの憂鬱』(http://c-cross.cside2.com/html/j0000000.htm)に詳しいが、第二次大戦後のアメリカでは戦場からGIが帰還したことでベビーブームが巻き起こり、住宅難が深刻化した。それを解消する目的でこの時代に定着したのが地平線の彼方まで続く規格化された芝生付き一戸建て、パパは日曜大工に精を出し坊ちゃんと嬢ちゃんが駆け回り、自転車に乗った少年が新聞を庭に投げるという、我々のイメージするところのアメリカ像である。しかしアメリカン・ドリームとして余りに理想化され均一化された生活スタイルはそこに適応出来ない人間を生み出し、その健全さに反発するかのような文化が後の時代に花開くこととなる。デヴィッド・リンチ、ジョン・ウォーターズ、スティーヴン・キング、ティム・バートンといった人々がそうだ。ここで重要なのが、これらの作家/映画作家の作品が常に自分を疎外した50年代の保守的な文化への反発と、そこに対する郷愁の念との間で常に揺れているところだ。当時のテクニカラーを思わせる鮮やかな色彩で倒錯的世界を描いたリンチ『ブルー・ベルベット』はその代表であるし、初期の『ピンク・フラミンゴ』でオールディーズをバックに悪趣味の限りを尽くしてみせたジョン・ウォーターズも後年の『クライ・ベイビー』『ヘアスプレー』ではゲイの自分を迫害したはずの故郷ボルティモアをノスタルジックに、しかし現実に存在した社会問題も交えて描いている。肯定でも否定でもない、表現者としての誠実さゆえの「揺れ」がこれらの作品を深みのあるものとし、名作にしているといえよう。

翻って『シェイプ・オブ・ウォーター』にはその「揺れ」は観られなかった。本作に描かれる60年代初頭という時代は社会の片隅に生きる主人公たちに有形無形の圧力を加えてくる完全な「敵」であり、観客にそれ以上のものとして受け止める余地を与えない。それは悪役ストリックランドや彼の家庭、またはジャイルズが想いを寄せるダイナーの男店員といった人物に(しつこいほど)象徴されている。ジャイルズにわざわざ「私たちは早く生まれすぎたんだ」という台詞を言わせたりする。

それはなぜか。おそらくこの時代は現代だと政治的に「正しく」ないのである。イライザやジャイルズが生きるべきはヒッピー革命が起こりマイノリティの権利運動が盛んになった60年代後半以降ということなのだろう。しかし当たり前だがその時代も劇中の年代と地続きなんである。
それを強く実感したのが数年前、ボブ・ディランらと共にフォーク・ロックの開祖とされるバーズのリーダー、ロジャー・マッギンの単独ライブを観に行ったときだ。バンドの代表曲「霧の5次元("Fifth Dimension”)」を演奏するに際してマッギンはおぼつかない手つきでiPhoneを触ると「トワイライト・ゾーン」のテーマを流し、有名な冒頭のナレーション("There is a fifth dimension beyond that which is known to man…”)を完璧に暗唱してみせた。私はその時、この1942年生まれのイリノイ州生まれのギタリストと自分が同じ時空を共有しているような感覚に陥って感激したのだった。彼もまたその「揺れ」を持っていると。
ちなみに『シェイプ・オブ・ウォーター』にはR&Rが1曲も登場しない。まるで白人と黒人の文化的交流と社会的衝突(またひとつの『揺れ』)から花開いた文化が存在すると困るとでも言うように。その事実に気づいたとき、愛着を持っていた時代が丸ごと否定されたような気がしてひどく寂しくなった。

そう、事情は分かるのだ。
たとえアメリカ人でもその年代のことなどもうよく分かってないし、おそらく68年メキシコ生まれのデル・トロ監督自身もよく分かっていない(『大アマゾンの半魚人』とか、キッチュなB級文化は別として)。それに何と言っても人種差別動画をTwitterで平然とリツイートする男が大統領の座に座っているご時世である。善悪の基準などとうの昔に狂っている。「この時代は現代からすると問題があったが、しかし良き時代だった」などと「揺れ」を匂わせると反動・反PC陣営と見られかねない。なのでノスタルジアはほどほどに、正しいものはそのまま正しく、正しくないものは正しいものを追い詰める存在として徹底的に描かなければならない、何せどういう批判が来るか判らないのだから…etc.

しかし、本当にそれでいいのか?
これは世間の枠など越えて想像力を羽ばたかせるファンタジー映画ではないのか?
半魚人との恋愛に突っ走る唖者の女性は決して「正しい」のではなく、社会的に指弾されても情愛を貫き通すから気高く美しいのではないのか?

『シェイプ・オブ・ウォーター』は一点の曇りもなく素晴らしいし「正しい」映画である。
だが私はそろそろ、これや『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のような「正しい」映画が批評家の絶賛を浴びる状況にうんざりしてきている。
PCへの配慮は重要だとしても、そこを基準に劇映画の評価を決めるような、本末転倒な事態となってはいないか?
古臭い考えだが、私は映画は不良のもの、社会に馴染めない人間を救済するためのものだと思っている。先ごろある日本の女優さんも「学校に行くのがきつかったら映画館に来てください」と発言し喝采を浴びた。だが学校をサボってふらりと入り込んだ映画館で、100点満点の優等生じみた映画を見せられたらたまったものではないだろう。一種の文化の自殺とも言える。
おそらく、この風潮はハリウッドから世界に向けてこれからも拡大していくことだろう。
だが、それが映画の歴史にポジティブな影響をもたらすとは私にはどうしても思えないのだ。






     




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