われらの内なる空虚-星野源氏の騒動に際して-

4月12日、コロナ自粛により殺伐さを増す一方のネット空間にある騒動が持ち上がった。

音楽家の星野源氏が上げた動画「うちで踊ろう」に総理大臣・安倍晋三が自宅でくつろぐ様子を添えたコラボ動画を自ら配信し、大変な波紋を巻き起こしたのである。

観測した限り、反感の趣旨としては皆が"自粛"で家にいることを余儀なくされる中、本来音楽家たちが自由にコラボしていいという目的で星野氏の上げたフリー素材に対し、至らない対策を連発し怒りを買っている総理大臣が自宅でくつろぐ様子を添付するとは実に失笑ものだというものが大半だった。

まあ確かに、それはもっともだろうと私も最初の時点では思った。しかし気持ちの悪さを覚えたのはそこからだ。

私は星野氏が、反感を持った人々が一様に口にしたやうに音楽家全体への侮辱に対し強い言葉で否定すべきであると思った。ところが、本人は事前に総理に対しコラボを許可した事実はないという、それだけの声明を1枚、instagramのストーリーに上げたのみであった(当然、今では見ることができない)。そして先に総理大臣の無神経を罵った人々は概ねそれが星野氏の精一杯の抵抗であり「同じコラボをした人たちの映像はストーリーで紹介しているが安倍総理に関してはそうではない、なのでこれで十分である」などと"忖度"し、さっさと問題を幕引きしようと図った。

この様子を目の当たりにしたとき、私が真っ先に連想したのが天皇制である。わかりやすく言えば、例えば天皇が何らかの「おことば」を発表すると、リベラルの人々がその全く抽象的な一言一句をあげつらい、この部分は自民党の政策に対する批判であるとするあの現象だ。あるいは昭和天皇・裕仁に戦争責任はないとする保守派の人々が太平洋戦争開戦直前の御前会議で本人の読み上げた明治天皇の和歌を取り上げ、それをもって戦争に反対したと見做すあれである。

彼らは言う。「本人の立場を考えろ。これが彼のできる精一杯の抵抗だ。お前のような批判だけしていればいい部外者とは違うのだ」と。

私は本当にうんざりしている。というよりこの精神構造が日本人ひとりひとりの内面にいかに深く根付いているかということを実感し、慄然としているといった方が正しいか。

何やらフランスの哲学者の言った「空虚な中心」論を思い出す。日本の首都・東京の中心には広大な皇居があり、巨大な虚空として国民に対し門を閉じているが、それは日本人の精神構造にも当てはまる。そのただ虚空に存在するだけの人々を崇め奉り、一挙一動・片言隻語に勝手に自らの願望を仮託しある種の思考を放棄する、というような内容だったはずだが、私の知る限り、今回のウイルス禍に際して皇室は何らの「おことば」も発してはいないと思う。なので、国民の精神は無意識に天皇と同じ空虚さを抱いた存在を探し求め、たまたま愚劣なリーダーに利用されてしまった音楽家・星野源氏に白羽の矢が立ったというわけだ。

こういうことを言うと「いやそれは違う、きみは知らないと思うが、星野源はかつてこういう活動をしていて〜」なる反論が寄せられる。そういう人々に問い返したい。今の彼の活動はその時代を反映したものなのか。大ヒットドラマの主演俳優であり、自作の主題歌とダンスで一世を風靡し、今に至るまでその立場をキープしている音楽家という「普通の日本人」のもっている程度の知識しか、私は星野氏に関して持っていない。だが、それだけで今回の騒動を語るには十分だと思う。

もう一つ、星野氏に天皇制を強烈に感じるのが細野晴臣氏をはじめとしたはっぴいえんど一派との強い結び付きである。はっぴいえんどは東京の山の手出身という特権階級的意識を以て本来ロックの持つべき階級闘争性を歪めた張本人であると私は見做しているが、それは彼らを日本ロックの始祖と崇めた音楽ジャーナリズムや一般リスナーの責任も大きい。本人たちが意図的に日本ロックのそうではない可能性を周縁に追いやったというわけではないのだ。これもまた「空虚な中心」構造である。そして当然の帰結として、細野氏を始めとしたはっぴいえんど及びその周囲の人々は同じ資質を持った星野源氏にその"ノンポリ"(という名の現状肯定)性まで含めた権力を継承しようとしている。彼らの結び付きの証拠はネットにいくらでも転がっているので、ググってみてほしい。

といったところで私が今回の騒動の責任を無能な総理大臣1人に帰し、表現者としての星野氏を免責しようとする動きに対し大いに違和感を抱いた理由は伝わったと思うが、ここまで半笑いで読んでくださったプロ/アマ問わずミュージシャンを名乗る皆さまにどうしても伝えたいことがある。

いま現在SNSでコラボにバトンに、暇つぶしに余念のないあなたたちもまた特権階級である、ということだ。

むろん星野氏のような影響力を持った存在はごく一握りだろう。だが技術の発達で、彼の「おうちで踊ろう」にコラボして自らの表現を発信して、多くの反響を受けることはできる。そして、それが可能なのはある程度の環境や資金及び余暇のある人間に限られる。

こういうことを書いていられる自分も含め、私はそういった行為全てを特権的と呼びたい。例えばクラシックの演奏家がそれを行っても問題はないだろう。その出自からしてブルジョワ的、特権的な音楽であることは明らかなのだから。だが、コラボを行なっている大勢の音楽家は私の知っている限りみなサブカルチャーをその根っこに持っている。由々しき事態であると思う。

サブカルチャー、特にその根幹をなすロック、フォークは常に大衆の中の、いちばん立場の弱い人々に寄り添うべきものである。考えてもらいたい。政府が補償を行わないことによりウイルスに感染する危険性を冒しても仕事に行かなければいけない人々がいる。そして疲れ切って帰ってきて、スマホならPCなりでSNSを開いて真っ先に目につくのがそういった戯れだったらどう思うか。星野氏自身が語ったように、果たしてその人々を励ますという方向にのみ機能するかどうか。むしろウイルス以前から厳然として存在する階級差を実感し、怨嗟の声が渦巻くのではないか。

サブカルチャーが弱いものに寄り添うなど半世紀前の青臭い理想論だ、と仰る向きもあろう。しかし、その青臭い理想論さえ捨てたらどうなるか。醜悪な抜け殻としてのロックやフォークが残るだけであろう。

だから、ミュージシャンの皆さんにお伝えしたい。自分たちが表現行為ができたのはそれを担保してくれる社会を必死に支えていた人々ではなかったか。自分たちとその仲間だけが生き残り、にっちもさっちも行かなくなった人々が死に絶えたコロナ後の世の中で皆さんの奏でる音楽に価値があるのか。それを考えたときに真に生き残るべきなのは「仲間」ではなく「市民」ではないのか。

私は元々崩壊寸前であった社会に戻って「仲間」と生き残ってそれまでの活動を続けても仕方がないと考えている。まあ、そもそもほとんど仲間などいなかったのだけれど。

だから、コラボやバトンで内なる精神の平安を図るのも結構だが、これから大きく変わってしまう社会と市民のために皆で声を上げて行こう。たとえ稚拙でも、「天皇」に任せて頰被りするよりマシだ。大丈夫、何も今すぐ全員がチリのビクトル・ハラのようになれというのではない(これも知らない人はググって)。今のところ言論の自由はあるのだから、集会ができなくても、ライブができなくても、やれることはあるはずだ。

それを、皆さんで考えてゆきたい。




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