目が慣れたらひとまず

気の抜けたコーラでも飲んで。というのがお作法なのだろう。音に揺れて、耳の奥を震わせ、その振動が首の後ろに到達する瞬間が好きだ。私は最近、物思いに耽ることはあってもそれを留めておかなくなった気がする。
最近、昔に比べて偽物が居ると感じることが減った。街を歩けば、インターネットを漂えば偽物ばかりだと感じていたことあった。それは、ファッションで、アクセサリーで、声で、身振り手振りで、感じる部分は多種多様だ。そんな感性がここ一年ほど薄らいでいる。
間違いなく一つ言えるのは、私が他者への関心が薄らいでいるという事だと思う。そして、他者への関心が薄らいでいくとともに社会に対する疎外感のようなものも薄らいでいく。私は頑張って尖っていたのかもしれない。

20歳にも満たない青い頃、社会的地位の高低差や、社会の受け口の狭さに辟易していたことがあった。これもくだらない若気の至りやらなんやら言うもので、今となっては酷く拗らせていた自己顕示欲なのだろうと感じる。数年前の出来事でしかないものを、大昔のように綴るのはいささか驕りのように感じるし、遺書のようにも感じる。ただ、区切りを自分なりに付けているに過ぎないつもりではあるのだが。

語りすぎるのはいつでも、自身のだらしない体を見せることよりも難易度が高いと感じる。それを可能にしてくれるのは、他人の自身に対する無関心さと、間違いなく存在する非血縁関係上の家族たちのおかげだと思う。

バイクを買おうとしたときに、少なくないお金が動くことを頭で計算するだけでもわかっていたつもりだったが、きちんと数字に、文字に落とし込むと恐ろしいものがある。〇〇万円と書くのではなく、あえて0,000とつけることで事の重大さを知る。そして、己のちっぽけさを知る。尻込みはしないが、もし支払う瞬間に遠い未来のことを考えて、今この瞬間の大金を出し渋ることがあれば、いつでも私は一年、みなより早く死ねばいいのだと考えることにしている。少なくない金を払わねばならないことは今までもあったわけで、これからもバイク以外の部分でお金を支払わねばならないこともあるだろう。そうすると、私は一体、いくつで死ぬつもりなのだろうか。

句読点をつけすぎると、重みを付けて話しているようだ。しかし、句読点をつけなすぎると、それは余裕のなさそうな文章に変わる。いつも塩梅が難しいと感じるが、そこまで本来気にせずともいいことなのかもしれない。必要なのは、伝えたいことが文字や文章になっているかという自問自答と、素直な気持ちで伸び伸びと綴れているかという事だけでいいんだと思う。

それにしても、最近は空気が良い。澄んでいるのだろうか。ただ、私の好物の空気なのだろうか。それとも精神的な状態に過ぎないのだろうか。いずれにせよ、私はこの空気を体内に取り入れることを長らく求めていたように思う。それは、数日まともなものを口にせず、久しぶりに食べた炊き立ての米に感動するようなものだ。それか、それ以上に私はこの空気を待ち望んでいたし、実際に感動している。街で歩いていて、不意に深呼吸をして少しでもこの空気を取り入れていることを意識したいと感じるほどにだ。

1つのテーマについて書き綴ることは、容易ではない。でも、少しだけリハビリできた気がするから今度は何かについて思いを巡らせて、隙間から漏れ出していくものすら肯定して文章を書いていきたいものだ。


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