見出し画像

身体と言葉を行き来する

2022年6月、最上和子さんに舞踏を学べる日が、ようやくきた。実弟・押井守さんとの対談本『身体のリアル』を読んでから4年。お稽古やワークショップに参加したいと願いながら、どうしても日程が合わず(自分が普段参加しているお稽古も最上さんのも基本的に日曜日だった)、思いを募らせるばかりだった。

昨秋開催された、最上さん主演のイベント「もうひとつの眼/もうひとつの身体」のクラウドファンディングのリターンに「ワークショップ参加チケット」があるのを見たときは、「やった」と心の中でステップを踏んでイベント参入チケットと一緒に購入し、参加できる日を心待ちにしていた。今年のはじめに予定されていたワークショップはコロナ情勢のために開催が一部見送られ、しばらくはないかなぁと思っていたのだけれど、突然開催連絡が届き、予定をこじ開けて、4年越しの願いを叶えるべく都内某所の開催場所へ向かった。

ワークショップで体験したことは、思っていた以上にシンプルで、思っていた以上に濃厚だった。後で思い起こせるようにと、やったことや感じたことをメモしてみたけれど、どうも言葉がしっくりこなくて、呼び水として自分だけの心に留めておこうと思っていた。ただその日の夜は「もうひとつの眼/もうひとつの身体」についておしゃべりするイベントに参加することになっていたのだった。

帰宅して夕飯を食べて現実に戻り、ほんの少しだけうたた寝して、頭を空っぽにして参加することにした。話すことを準備するよりも、今日の余韻のままに話した方が良い気がしたからだ。そうして21時過ぎから始まったおしゃべりは、気づけば23時を迎える頃まで続き、ワークショップの体験も少しずつ言葉に置き換えることができた。せっかくだから覚えていることだけでも書き起こしてみようと思う。

モノノメガタリについて

はじめに参加したイベントについて簡単に紹介すると、雑誌『モノノメ』のファンコミュニティ「モノノメガタリ」による『モノノメ』の記事について語り合うイベントで、今回取り上げられたのが、2号に掲載の"「もうひとつの眼」と「もうひとつの身体」はどう出会ったか"という、「もうひとつの眼/もうひとつの身体」まつわる最上さんと飯田監督の対談記事だった。踊りをやっている者として、またその場に立ち会った者として声をかけていただき、もう一人、演劇をやっている方も話者として呼ばれているということで、とても楽しみにしていた。進行は「モノノメガタリ」主催メンバー。もうひとりの話者はHさん、私はTとして、ここから記憶のかけらを記録する。

***

話者の紹介

-はじめにそれぞれの活動と、始めた経緯、続けている理由を聞かせてください。

T:15年ほど前にベリーダンスを始め、その先生に師事する中で、コンテンポラリーダンスや舞踏の要素も取り入れながら、踊り続けています。レッスンを受けるだけで十分満足していたのですが、あるときから公演を目指すようになり、2016年に先生主催の公演に出演させていただいてからは、年1〜2回のペースで出演し続けているというのが今の活動です。会社員をしながらで大変に思うときもありますが、踊ることが好きで、得るものも大きくて、辞める理由がなくずっと続いています。

H:小さな頃から演劇を観るのは好きでした。ずっと見ているだけで、俳優になることは考えていなかったのですが、2019年の年末に声をかけていただいたことをきっかけに、会社員をしながら活動をする中で、2021年5月に初舞台に立ちました。今は会社を辞めて演劇一本でやりはじめたところです。

場の力

-今回の記事で「眼」と「身体」というテーマが取り上げられていましたが、記事を読んで感じたことを聞かせてください。

H:まずこの場にいたかったなあと思いました。どんな空間になっていたんだろうと。文章を読むだけでも、ものすごいエネルギーというか場の力があったんだろうなと想像できて、行けなかったことを悔やんでいます。

T:私はその場に立ち会っていて、今ものすごくジェラシーを受けた気がしますが(笑)、本当に素晴らしい空間でした。歴史ある美しい建物に陽の光がちょうどよく差し込み、中央には大きなクレーンカメラがあり、その周りに参入者(観客)が座り、最上さんがゆっくりと登場する。舞踏はとてもゆっくりな動きになるので、見方によっては何も起こってないようにも見えるけれど、実はとんでもないことが起こっている、そんな場でした。

-「眼」と「身体」について投げかけたのに二人とも「場」の話になったのが面白いですね。普段何かを観に行く立場だと、内容や出演者を見て決めることが多く、どこでやるかということは気にしてなかったのですが、やる側にとって場というのは重要なものということでしょうか。『モノノメ』の別の記事で「歴史に見られている」という感覚についての言及がありましたが、そのような感覚はありますか。

H:すごくあると思います。どこでやるかというのはとても重要で、もちろん会場の大きさによって声量等を変えたりという技術的な側面もありますが、その場にこれまで立ってきた方々の思いや、愛されてきた場所だと感じることはよくあって、そういう方々から見られている、場の歴史を背負うような感覚はありますね。

T:私は、場に守られている、という言葉の方が近いかなと思います。ここ数年はずっと同じ場所で開催していますが、オーナーさんの思い、スタッフさんの、そしてここに立ってきた方々の息づかいがその場に充満していて、それらに守られて舞台に立っているように感じることが多いです。

H:守られていると思うと、出演直前の緊張が少しほぐれる気がしていいですね。

演じる眼と見られる眼

-「眼」の話について聞いてみたいのですが、舞台に立っている時はどういう見方をしているのでしょうか。

T:ひとつは客席から自分を見ている、客観視するための目線があって、実際の自分の眼は焦点を合わせずに全体を見ている感じです。舞台に立っているときはその二つの目線が常にあります。

H:僕も同じですが、付け加えると、演じているときは舞台上にも他者がいるので、その人たちを見て、その目線や動きを受け止めて動くことが多いです。反応して動く、その瞬間に生まれた感覚を大事にしてライブ感を作る意識が強いですね。

T:目線ということでいうと、ちょうどさきほど最上さんのワークショップに参加してきて、「10分かけて湯呑みを手に取って元の場所に置く」というワークがあったのですが、そのときに「焦点は合わせないでください」と言われました。そして「場があって、モノ(湯呑み)があって、自分がいる」と自分を一歩ひくようにも言われました。まずきちんと座してゆっくりと手を動かし、焦点を合わせずに湯呑みに手を伸ばす。空間全体を見ていても、視界に入っているから手に取ることはできるんです。そうして湯呑みに手が触れた瞬間、掌から腕から全身に大きな波がきた感じがしました。出会った、という感覚で、しばらく湯呑みと一体になって離れたくなくて、それでも元に戻して手放した瞬間は、寂しさのような不思議な感覚がありました。哀しさとか孤独とか、少しニュアンスは違うんですけれどそういう感じでした。

-ついさっきのワークショップの感想、すごくリアルですね。記事の中では、カメラの眼について特別なものとして書かれていましたが、カメラで撮られたことはありますか。またそのときはどう感じましたか。

H:お客さんが入って撮影も入ってということはありましたが、その場合はあくまでお客さんの目線が主なので、撮られているという意識は多少あっても、特別なものという感じではなかったです。

T:私も撮影が入るというのは毎回そうなのですが、「もうひとつの眼/もうひとつの身体」においては、舞台と客席の対立構造ではなく、演者と参入者がいるという儀礼空間にカメラを持ち込むことで、儀礼における神の目の代替になっていたのではないかという話がありましたよね。私自身は参入者として入り込んでいたので、対談を読んで、そういうことだったのかと気づかされました。儀礼には神の象徴があって、おそらく自然発生したであろう踊りがあって、そこに集う人がいる。つまり対立構造ではなくて、どれもがひとつの要素としてそこにある、というかたちに近いものが、あの場にあったようには思います。

意識と身体

-「身体」についても聞きたいのですが、演じたり踊ったりする中で身体観や内面で変わったことなどはありますか。

H:たとえばストレッチをするときに、ただほぐすのではなく、腰がどう伸びたいといっているか、身体の声を聞くようにと言われることがあって、頭で動かすのではなく、身体から動かすということを意識するようになりました。この時の感覚はいつもの自分自身とは異なる身体的なもう一人の自分がいるような感覚かもしれません。

T:『モノノメ』創刊号の最上さんのエッセイ「身体というフロンティア」に床稽古のことが詳しく書かれていましたが、そこにも通じますね。

普段は脳が先行して身体をコントロールしているのに、このときは身体が主導になり脳は出しゃばるのをやめて引っ込んでしまう

『モノノメ』創刊号 「身体というフロンティア」

この体験を今日まさにしてきたところです。10分間床に横たわって身体と床の境界が分からなくなるくらい力を抜き切ります。そこから10分かけて立つのですが、支点をつくらず最小限の筋力で、と言われたので手をつくわけにも腹筋に力を入れて起き上がるわけにもいきません。お尻の辺りからモゾモゾ動いてみても、身体が重たくてどうにもならず、何をどうしたら立てるのかが本当にわからない。それでも動き続けることでなんとか立ち上がっていく過程は、まさに身体が主導していたと思います。赤ちゃんになったような感覚でしたね。

-子育てをしていると、赤ちゃんが何度もスプーンを落としてその度に親が拾う、ということがよくありますが、はじめは自分とスプーンの区別がつかず、落とすことを繰り返して違うものだと学んでいくようです。床との境がなくなるというのは、赤ちゃんの感覚と近いのかもしれないですね。

人形の役割

-記事の中で人形の意味に言及されている箇所がありました。私の好きなプロレスでも最近、人形との試合というパフォーマンスがあるのですが、ヒト型のモノを扱うことの意味についてはどう思いますか。

H:ヒト型ではないですが、舞台装置として大きな唇の形を扱った公演があって、それは作りからしても絶対に動くことはないモノだったのですが、劇の中で動いているような錯覚を与えたということがありました。演劇は台詞があるので、その象徴としての唇だったと思いますが、その形でなければ感情移入したり錯覚したりすることはなかっただろうという意味で近いかもしれません。

T:私は最上さんと飯田さんの映像作品「double(ドゥーブル)」も見ていて、その中でも同じ人形を扱われているのですが、人形に自分を投影して、最上さんに動かされているような感覚に陥りました。手にしているのが花とかコップだったらそんなことは起こらなかったと思います。どうしても投影してしまう、そういう役割や効果はあるように思います。

***

おしゃべりを終えて

ワークショップ後のボーッとした状態でも、しゃべったことは意外にしっかりと覚えていた。そしてまだまだしゃべれるな、とも思った。リスナーさんの中には、以前に最上さんのワークショップを受けたことがある方もいたので感想を聞きたかったし、Hさんの話ももっと深掘りしたかった。こういう話はどれだけ時間があっても足りない。

言葉にするのは難しいけれど、言葉を重ねて積み上げていくことで掴めるものもある。この言葉は違うかな、どちらかというとこういうことかな、と言葉を探しながらおしゃべりすることで、たくさんのことに気づくことができた。

身体と言葉を行き来する

一番大きな発見は、生き物である身体とただのモノがなぜ入れ替わるのか、「もうひとつの眼/もうひとつの身体」で立ち上がった「第三の身体」の根源が垣間見えたことだ。

湯呑みと一体になったとき、床と溶け合ったとき、そして湯呑みを手離したとき、床から離れて立ち上がったときに体内に湧き起こったうねり。これを突き詰めたものが、生身の身体とモノがぐるぐると入れ替わる「もうひとつの身体」の源だったのではないか。

ワークショップを受けただけでは気づかなかったことが、話すことで解像度があがり、会話のやりとりの中でさらに鮮明に現れてきた。最上さんはとても言葉を大切にしている。稽古だけでも言葉だけでも足りなくて、両方を行き来することで到達できるものがある、そういうことなのだろうか。

ワークショップの一番最初は「名乗る」というワークだった。一人ずつ、場の中央に座して一礼し、皆に向かって自分の名前を名乗って元の場所に戻る。言われるがままに、意味はわからずともただ誠実に名乗りを上げた瞬間、この日の体験を語り書き綴ることは定めづけられたのかもしれない。


▲最上さんのエッセイ「身体というフロンティア」はこちらに掲載されています

▲「もうひとつの眼/もうひとつの身体」についての
最上さんと飯田監督の対談はこちらに掲載されています

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?