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さまざまな身体 -ドーム映像上映会「もうひとつの身体」に立ち会って-

その日、関東地方には台風が接近していた。午前中に自宅で仕事を終えて、風雨が打ち付ける窓から外を眺めながら、夕方には落ち着くことを祈って出かける準備をした。

目的地は足立区の西新井にあるプラネタリウムだ。といっても星空を見に行くわけではなく、ドーム映像作品の上映会に行くのだ。映画のように長方形のスクリーンではなく、あの丸い立体的なスクリーンに、天体ではない映像を映し出す。2011年よりドーム映像作品を作り始めた飯田将茂さんは、上映できる会場が少ない(プラネタリウムまたは仮設ドームなどになるが、プラネタリウムで科学や天文と関係のない作品を上映することは、とてもハードルが高いそうだ)という状況の中でもダンスなどの映像作品を制作し続け、2018年から舞踏家の最上和子さんを主演とした映像作品を二つ発表している。今回のイベントでは、その二作品が日を変えて上映される。

最上さんとの出会い

私が最上さんを知ったのは、映画監督・押井守さんとの姉弟対談本『身体のリアル』がきっかけだ。私自身がダンスを習っており、舞踏にも興味はあったので手にとってみたところ、押井家の話から始まって、舞踏の話、生と死、内面と外部など、踊りや身体にまつわる数々の言葉にすっかり魅了されていった。

一作目の『HIRUKO』という作品は2回見に行った。天井から押し寄せてくる映像の圧力、浮遊感、生と死の受容(私個人の感想)など、作品の表現方法も内容も、想像を遥かに超えた体験だった。二作目の『double(ドゥーブル)』はまだ見ておらず、今回のイベントで上映されると知って、今度はどんな作品なんだろうとワクワクしながら予約をした。

夕方になると風雨は少し弱まり、電車の遅れもなく無事にギャラクシティ(上映会場のプラネタリウムを含む施設の呼び名)に到着した。およそ2年ぶりの訪問に、少しタイムスリップしたような気分になった。『HIRUKO』の上映会がとても濃厚だったゆえに、そのときの記憶とこの場所は深く結びついている。

『double』の世界へ

臨場感がえられる中央の席に座り、座席を少し後ろに傾ける。頭上のスクリーンを見上げる体勢になり、自然と体が解放される。照明が落ちた暗闇の中、日常から作品の世界へと静かにうつっていく。

はじめは水のシーンだ。『HIRUKO』が思い起こされる。最上さんは「原初舞踏家」と名乗られているが、原初とは生命の根源、水は欠かせない要素だろう。

今回の作品では人形が用いられ、最上さんと人形との対峙が見どころだ。別々に存在しているヒト(最上さん)とモノ(人形)が出会う。人形は固くてゴツゴツして骨がそのまま膨れたような姿で、ところどころ欠落している。関節はギシギシと軋み、はじめは扱いづらそうに見えるが、肩を触れ合わせ、胴体を重ね、繊細な指先で丁寧に動かしていくうちに、人形の固さが少しずつ解れていくように感じる。どう体を動かしたらよいか、全く分からないところから少しずつ分かっていく。踊りの手解きを受けているような感覚が生まれた。この時点では人形と同化していたのかもしれない。身体は座ったままでも、心でたっぷりと自由を味わっていた。

自由を獲得した人形は、身体の赴くままに、次第にヒトを導いていく。いつの間にか動きの主体は人形になっているように感じた。ヒトは人形の動きに任せてそれを丁寧に支え、受け止める。操られているというのとも異なる、とても静かで丁寧な双方向の関係性が生まれていた。この後踊り続けたら、どのような関係性になっていったのだろう。そんな余韻を残しつつ、作品は幕を閉じた。

人形を扱うということ

照明が灯り、日常があらわれる。上映後のトークショーは、こういった言葉にしづらい作品では特に大切だと思う。作品の世界から日常に戻っていくために、言葉と時間が必要だ。

トークショーの語り手は、監督の飯田さん、主演の最上さん、そして能楽師であり人形劇なども上演されている安田登さん。早速に感想を聞かれた安田さんは、事前には「見てすぐは感想は出づらい」といわれていたそうだが、手元のメモを見て「これ全部喋ったら僕だけで40分終わっちゃう」と笑いながら和やかに対話が始まった。

一番興味深かったのは、人形の扱いについてのお話だ。人形というのはヒトの形をしているがモノである。しかしその形ゆえに、自己を投影したり、可愛がったりするものとして扱われることが多い。

元々、人形にほとんど興味がないという最上さんは、普段の稽古でコップなどのモノを扱うときと同じように、感情移入を退けて最後まで向かい合っていたが、次第にヒト型であることの認識が生まれ、濃い感情が湧き起こりドラマが生まれたという。私が作品を見て、ヒトから人形へ主体が変わったと感じた部分は、むしろ逆のことが起こっていたのだろうか。

演者が感情移入すると観る側が覚めてしまうということはよくある。安田さんは人形劇の際、演者には「感情移入するな」と伝えているそうだ。感情とは表面に出ているものにすぎず、その奥にはもっと静かなものがある。その内側から出てくる動きが最上さんと人形にはあり、とても気持ち良かったと述べていた。安田さんが人形を扱うようになったきっかけは海外公演で人が足りなくなったから、というエピソードも聞け、あくまでモノとして、必要以上の感情を込めずに扱っていることが二人の共通点であり、またこの作品に引き込まれる大きな要因でもあったのだろうと思った。

さまざまな身体

最上さんの人形と安田さんの人形の違いや、本来の丁寧さなど(「寧」という漢字の成り立ちは、皿の中に心臓を乗せて持ち上げている姿だそうだ)、面白い話が次々に飛び交い、あっという間に時間が経っていた。

まだ少しぼんやりとした頭のまま帰途につき、作品とトークショーの余韻に浸っていると、なんだか生の舞台を見た後のような充足感があった。それだけ映像に力があったことは確かだろう。しかし思い当たることがもう一つあった。それはトークショーで見た最上さんと安田さんの身体だ。舞踏家と能楽師、姿勢がよいのは当然だが、例えばファッションモデルやバレエダンサーなどの姿勢とは違った美しさで、スッと芯が通って全身の力が抜けている。ちょっとした手の動きもしなやかで、話を聞きながら、同時に踊りを見ていたのだ。トークという日常寄りの場であっても、舞台に立てば踊り手、そんな姿を見せられたように感じた。

今回のイベントは「もうひとつの身体」と名づけられている。それは人形であり、映像を通した身体であり、時と場所に応じた身体であり、他にも様々な意味が込められているのだと思う。自分にはどれだけの身体があるのか、そして新たに生み出せるのか。最上さんと飯田監督の今後の活動を楽しみにする一方で、自分の身体についてもさらに追求していきたいと強く思った。

そういえば会場から外に出たとき、雨は上がり風も弱まっていた。どんよりとした奇妙な空気を切り裂くように、背筋を伸ばしてバス停に向かった道のりは、今日の記憶に深く刻み込まれたことだろう。

<関連リンク>

▲『身体のリアル』 とても面白いです。ぜひ。
▲雑誌「モノノメ」 最上さんのエッセイ「身体というフロンティア」が掲載されています。こちらもぜひ。

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