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「日本の高校教育:履修主義から習得主義への移行提案(勝手な妄想)」

日本の高校教育は「履修主義」に基づいています。このシステムでは、生徒が指定されたカリキュラムに従って授業を受け、単位を取得することで学習成果が評価されます。しかし、この方法は生徒個々の理解度や興味を十分に反映できないという問題点があります。そこでより柔軟で個別化された「習得主義」に基づく教育システムへの移行という視点で考えてみました。実現可能性などは度外視した勝手な妄想となります。

「履修主義」と「習得主義」の定義

まずは、この2つの説明を簡単に書いておきます。

「履修主義」
生徒が教育機関が定めたカリキュラムに従って授業を受け、指定された単位を取得することで学習成果を評価する教育システム。授業の出席と単位の取得が重視され、教育のプロセスが標準化される。
「習得主義」
生徒が特定の学習目標や成果を達成することを中心に置く教育システム。
生徒一人ひとりの理解度やペースに合わせて学習が進められ、達成度に基づいて評価される。学習の内容と成果が重視され、個々の生徒のニーズに応じた柔軟な教育が可能となる。

 現行の教育システムでは、授業出席と最低限の成績が単位取得の基準となっています。これにより、基礎知識の理解が不十分なまま進級する生徒も散見され、取得単位がその生徒の能力を反映しているとはいえません。

そのため、大学では生徒の学力を測るため、入試において学力試験に重きを置かざるを得なくなるのです。これは、教育の連続性を損ね、大学と学生双方に余計な負担を強いることになっています。

日本の教育への提案

高校教育を完全な習得主義とし、単位認定を全国統一の学力認定試験とすれば、個別に学力を図る必要はなく、大学入試がマッチング重視へと変わるのではないかと思う。

義務教育を終えた15歳から20歳の5年間を中等教育の目安期間とし、高校に所属しつつ、それぞれの興味・関心に従って単位を習得していく。各学校の枠組みは緩やかにし、必要な単位は学校間、あるいはオンライン教育でも取得可能とする。その中で本気で学びたい分野ができ、必要な単位を取得した者から順次大学、あるいは職業訓練学校などへ進んでいく。

このシステムならば、最短で大学・学部へ進んだ生徒と、紆余曲折ありながらその学部への進学を決めた生徒が一緒に学ぶことになるため、年齢・学びの変遷の多様性が自然と起こる。

私は「自ら選択していないものに学びはない(もしくは少ない)」と思っている。このシステムであれば、少なくとも自分で選択して単位を取りに行くので、これまでよりも学びは大きくなるはずである。

大学、学部

出願要件として、「学問を修めるのに必要な科目の単位」+「自由に興味のある科目の単位」を幾つかを指定する。単位を習得している時点で学力は担保されているので学力試験は行わず(あるいは最低限とし)、マッチング・実績・人物重視の入試とできる。また、必要外科目を自由に取得させることにより、必然的に学びのバックボーンに多様性のある生徒が集まる。

高校生

興味ある分野を選択し、単位取得のための学習を行う。と同時に自分の興味・関心を探す活動、自分は何者なのか、の問いに徹底的に向き合う。5年間は目安とし、単位の習得に年齢、順番等は基本的に設定しない。高等教育機関、専門学校などへの進学は、単位さえ習得していれば各自のタイミングで良しとする。

高校

単位習得のための講義またはアクティビティ開催の場であると同時に、コミュニティ作りの場としての機能を担う。高校生が「自分は何者なのか」を考える手助けを行う場であり、学習のハブとする。生徒の学び・成長をサポートするメンターと、単位習得のための学習を指導する講師は完全に分ける。

多様性を認める社会を目指しながら、教育が画一的すぎるというのは大きな矛盾である。基本的な教育を終えた後は、それぞれがそれぞれのやり方、ペースで人生を選択するのが当たり前、という社会を作っていくべきであると考える。

皆と同じ行動を強い、我慢し忍耐力を付けさせる、という考え方は全く間違っている。人は
・人生を賭けてやり遂げたいこと
・実現したい未来
・何をおいても救いたい人々
を見出すことができれば、いくらでも努力をできるし、苦しみにも耐えることができる。徹底的に自分に向き合い、自分は何者であるか?を考えさせることが重要なのだ。そのために上記のようなシステムがあっても良いのではないかな、と思い書いてみました。


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