雑記(東京に1週間戻って)


三連休初日、東京の街を移動していると、大都心のオフィス街にかつて鳥だったものが落ちていました。東京の街ではそれなりに遭遇することがありますが、近日の酷暑からか、肉はほとんどなくなり、どこかの骨がかろうじて鳥であったことを主張しているようでした。私は某巨匠監督の引退作といわれる映画を見るために街を移動している最中でした。花のように着飾り、またたっぷりと整備された肉を纏った男女が目もくれずに歩き去っていくのがあまりにさみしく、報われない鳥の魂とともに歩んでいる気持ちになったのでした。

その作品を見た後に分かったことです。作中において、鳥(ペリカン)がいわゆる畜生道に落ちた人間のように描かれていました。自然および人間の社会生活の摂理に巻き込まれて、満たされない渇望のなか苦しみながら死んでいくシーンがあります。思わずハッとしました。先ほど街中で遭遇した出来事はこの内容のために存在していた、そう思えてきます。このように考え始めた途端、この作品を鑑賞するという行為自体が、私の意図を超えた範囲で意味を持ち始めるような感覚になるのでした。

人生には時々こういうことが起こります。偶然でしょう。しかし、偶然にも意味はあります。偶然とは完全なランダム性に基づいていることを言っているのでしょうが、それは過程に対して言っている。偶然の結果として、何らかの道筋が目の前には表れています。人生の、一日のあらゆる時点において無数の選択肢から抽選が行われて、並列するパラレルワールドを尻目に現在を進んでいくことを考えたときに、偶然性に導きを感じるのはおかしいのでしょうか。

起きたことは変えられないので、後からの解釈をどのように考えるかというのは自由な話です。私は、このような偶然が生じた場合には、何かの意味を積極的に見出すようにしたいのです。そのことが起きたタイミングにも意味があり、場所にも意味があり、一人であったか多数であったかにも意味がある。そう考えます。そこに神を見出すか、精霊を見出すかは別に自由です。でも私の場合は、ただ人生を生きるための知恵として活かしたいだけ…と言いつつも、見えざるものを信仰する気持ちが少しずつ生じてきています。

自らが選択したと思い込んでいるが、本当は選ぶべくして手に取ったのだという可能性を考えていると、人生が少しだけ豊かになるように気がしてきます。
そら、今ここにも1枚のアルバムが私に聞かれるのを待っていたように現れたんです。空の色や日差しの角度、ふいている風の向きや信号の変わるタイミング全てがパズルのようにビシっと決まってきました。こういう瞬間があるから生きているのは楽しいんです。


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