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初めてのキスの、その前に

よく晴れた暑い日だった。
高校3年生。同級生はみんな予備校に通い、受験に備えている。
でも、わたしは違っていた。
スカートはまだ早い、と判断し、アイスブルーのストレートジーンズをロールアップ。淡いピンク色のパフスリーブブラウスを合わせている。ビジューのついた白いウェッジソールのミュールから、ターコイズに染めた爪を覗かせて。
鎖骨に届くか届かないかくらいの髪の毛を軽く内巻きにし、この日のために買ったKATEの薄いピンク色の口紅をさす。アイライナーで決して大きくはない目をくるり1周。目尻ははね上げて猫目メイクに。
今日ばかりは大好きなロリィタファッションも封印。誰かのためにメイクをし、服を選ぶのも楽しいと思えた。
巷ではほんのり透けるシリコン素材のバッグが流行っていて、わたしも白いそのバッグに携帯電話ケータイ、わずかばかりの現金の入った財布、ハンカチ、リップ、長野まゆみの文庫本を忍ばせていた。

文庫本。
読書が好きなわたしは、移動時には必ず本を読むのだが、今日は本を開いても目がページの上をなぞるだけで、内容がまったく頭に入ってこなかった。
読書は早々にあきらめて、本体と同じかそれより大きな「おしゃれキャット」のマリーちゃんのぬいぐるみストラップをつけたケータイを開く。
メールキーから流れるように十字キーの下を何度か押してカーソルを合わせ、センター問い合わせ。
暗くくすんだ液晶に「新着メールはありません」の文字が浮かぶ。
がっかりしたような、ほっとしたような、名前をつけがたい感情がわきあがり、ケータイをバッグの中にしまうと、もうすることがなくなり、窓の外に目を遣る。
宇宙の底が透けて見えるような空の中。
JRタワーやテレビ塔、プリンスホテル、建設中のタワーマンションとクレーンなどがはっきりと見えてきて、わたしの夏が始まった。

わたしは今、彼と付き合うことになってから初めてのデートをするために、電車に乗っている。


札幌駅で電車を降りる。
ホーム全体が屋根で覆われて巨大な日陰になっているにもかかわらず、むわっと熱い空気が全身を包む。
バッグの中のケータイが震え、彼からだ、と直感する。
敢えてすぐには返信せず、未開封のまま。
うきうきしていることを悟られたくはなかったし、即返信することはなんとなくダサいことであるように感じられた。
わたしにはメールをくれる男の子なんて、たくさんいるの。
あなたはそのうちの一人に過ぎないし、特別でもなんでもないの。
そんなふうに振る舞うことが、いい女の条件であるように思っていた。

人の波に流されるようにして階段を降り、西改札口へ向かう。
大丸の前で待ち合わせをしようと昨夜約束した。
平日の昼下がりとはいえ、夏休み真っ只中の札幌駅やその周辺は、観光客と地元民とで混雑している。
昨年、JRタワーや大丸札幌店、ステラプレイスといった駅ビルが開業してからは、通過点に過ぎなかった札幌駅が、若者の遊び場に変わっていた。
人々の黒い頭の中で、彼の金髪はとてもよく目立つ。
わたしは大丸入口、CHANELの広告の前に立つ彼を早々に発見していたが、やはりここでももったいぶるようにわざとゆっくりと歩いた。

今日はどこに行くのかな。
本屋さんに行って、LOFTの地下でアイスを食べて、エスタの9階でプリクラ撮って。
――そして多分、わたしは今日彼と初めてキスをする。


「ごめんね、待たせちゃって」

ケータイの画面を見つめている彼に声をかける。
一見柄の悪い彼の瞳が、喜びに満ちたものに変わる瞬間をわたしは見逃さない。

「待ってないよ。メール、見た?」
「見てない。気づいていなかったかも」

小さな嘘をつくわたしの手をとり、彼は「本屋に行きたいって言ってたよね」、そう言う。

ああ、好き。
いつもわたしのことを優先して考えてくれて、必ず「どこに行きたい?」「何を食べたい?」と聞いてくれるところも、わたしの高校にはいないやんちゃなタイプの男の子だというところも、眉間に皺を寄せる癖があるところも、わたしよりも長いまつ毛も。
何もかもが愛おしい。
まだそこまで関係を深めてはいないけれど、この人のすべてに触れてみたい。わたししか知らないところを見せてほしい。
わたしも知らないところまで、わたしの全部をあばいて、触ってほしい。

「本、見たい。加門七海って作家がいてね、すごく不思議で、でも怖くて、面白いの」

本のことなんてどうでもいい。この人ともっと深いところまで潜ってみたい。
そんな気持ちを隠しながら本の話をしかけた途端、わたしは気がついてしまった。

……それは、鼻毛ですか?
鼻毛だろう。鼻毛だった。鼻毛だ。鼻毛なとき。鼻毛ならば。

彼の男らしいしっかりとした鼻の、暗い穴から毛が1本飛び出ている。
彼はあごの先にだけ短く切り揃えられたヒゲを生やしてはいるが、それ以外の部分はていねいに剃られている。
鼻周りに毛はなく、だからこそ鮮烈に黒々と主張してくる。
紛うことなき鼻毛である。もはや言い逃れはできない。

大好きな人の鼻の穴から毛が「こんにちは」と挨拶してきたとき、いい女はどんな反応をするのだろう。
わたしも自分の鼻から毛を引っ張り出して、「こんにちは」と挨拶するべきなのだろうか。
その場合、鼻くそまで一緒に飛び出してしまったらやはり失礼にあたるのだろうか。
恋愛初心者のわたしにとって、いきなり難易度が高すぎる問題に直面してしまった。
BLばかり読んでいないで、Cookieでも読んで予習しておけばよかった、と後悔するも、もう遅い。

彼の鼻からは相変わらず毛が飛び出ている。
呼吸に合わせて微かに上下し、軽やかなダンスを踊っているようにも、一見無愛想な彼の浮かれた気持ちを密かに表しているようにも見えた。

わたしは今日、この人とキスをするかもしれないのだ。
初めてのキスの思い出が、鼻毛に彩られたものになってしまうかもしれない。
彼の顔が近づいてくる瞬間も、わたしはきっと鼻毛ばかりに気を取られてしまうだろう。いつ唇が触れ合って、いつ離れたのかさえ分からない、そんな未来が見えた。
そして何より、「鼻毛の出ている人とキスをした」という事実は死ぬまで忘れることはないだろう、という予感がわたしをとらえて離さなかった。

どうしたら良い? 考えろ。考えろ。考えろ。

わたしは必死に思考しながら、彼に手をひかれてステラプレイスの観音開きのドアを通った。
周りにはわたしたちと同年代のカップルが行き交い、親しげに会話したり、すぐそこのスターバックスで買ったばかりのフラペチーノを一口ずつ交換したりしている。
彼氏からのプレゼントとおぼしき綺麗な水色の紙袋を、大事そうに抱える女の子。
少し機嫌が悪くなりはじめた彼女を、困ったように、でも愛おしそうになだめる男の子。
みんな幸せそう。
みんな鼻毛問題を乗り越えての笑顔なのだろうか。
それとも、世の中の恋愛上手たちは鼻毛で心乱れることなんてないのだろうか。

ステラプレイスの本屋さんは5階にある。
彼はわたしをエスカレーターに乗せ、自分はすぐ下の段に立った。
彼を見下ろす形で向かい合う。
わたしを見上げる彼の鼻の穴付近でダンスする毛。


何が起きたのか、自分でも理解するまでに少々の時間を要した。
昨夜、透明なピンクのマニキュアを塗った右人差し指の爪が、陽気に踊る毛もろとも彼の鼻の穴の中に吸い込まれていくのを、わたしは見ていた。

あ。

「鼻毛。出てたから」

18歳、恋愛初心者の乙女には、そう言うのが精一杯。
わたしは彼の呆気に取られた顔を一瞬だけ視界の隅にとらえ、前を向いた。
不意に、ドリカムの「やさしいキスをして」が聞こえた。HMVがあるここは4階。
今日の最初の目的地である本屋さんまでは、もう少し。
その時に、わたしは再び彼の顔を見る。どんな顔をしているのだろう。鼻毛は無事、本来あるべき場所へ格納されただろうか。
そんなことを考えながら高鳴る胸をなだめつつ、わたしは背筋をぴん、と伸ばした。