花を買ってもすぐに枯らす。だから花は買わない。

駅を歩いていると鮮やかな緑や赤が目に止まる。その時の私は大抵小綺麗な格好をしているから、つられて間違えてしまいそうになる。今度は大丈夫かも、と思う。小さな多肉植物の愛らしさ、生花の瑞々しさ、生活を生活にしてくれそうな彼らの輝きに目が眩む。それでも、花を枯らしてしまった日の、生活に大きなバツ印を付けられる感覚をどうにか呼び起こして誘惑に耐える。私はいつになればこの子達を大切にできるのだろう。
小さな花束をくれた人がいた。綺麗なものを抱えた家までの帰り道は自分もきちんと生きているように思えて誇らしかった。家に帰って、「可愛い」と衝動買いをした花瓶にさした。誰も家にあげたくないような、散らかった部屋に佇む鮮やかさが可哀想だった。失敗したな、と思ったけれど、どうにか助けてあげたくて部屋を片付けた。これを続ければ正しいのだ、と思った。でも私は正しくなれなかった、花は早々に枯れた。
花束みたいな恋をした、ではないけれど花束のような日々をくれた人がいた。おんなじように水をあげられなかった。私が枯らした。古い水を換えて、新しい水にしてあげましょう。そんなこともできずに、目の前にある輝きを失わせた。もうどうでもいいやと思った。逃げ出したかった。私にはもう水がなくて、探しにいくのもめんどくさかった。悩んで悩んで絞り出すのも、もうしたくなかった。

花がここにあること、それが当たり前に日常の彩りになって、幸せになってくれたらどれだけ良いことか。私にとってはいつだってただ自分の愚かさ加減を測る指標になっていて、幸せの象徴には未だならない。

私が花を枯らさず育てられる日は来るんだろうか。正しく水をやる日。当たり前の顔をして幸せを正面から受け入れられる日。想像もつかないいつかの日。


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