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あれから1年と5カ月。

去年、同僚が白血病で亡くなった。59歳だった。葬儀に出席してから、1年と5カ月だ。

コロナ禍で家にこもり、他人とのコミュニケーションも最小限、一人暮らしをしていると、時間がどんな速度で流れているのか、わからなくなってくる。物事が起こった時系列の記憶も、なんだか希薄になってくるから恐ろしい。

白血病だとわかったのが19年の春、お亡くなりなったのは、その1年3カ月後だった。今では何をするにも密を避けることは当たり前のことになっているけれど、前後左右の席と1メートル近くも空間を設けた告別式のセッティングが、とても異様な光景にまだその時は感じられた。

「僕は、人生は辛いものだと思ってるんだよね」と、同じ職場になって間もないころ、彼は飲んだときに、しばしばそう語った。(当時は、月に1回くらい、職場の仲間と飲みに行っていた。)私は32歳、その同僚は40手前だったと思う。

確かに、彼はわざわざ苦労を買って出ているようなところがあった。それまでの経歴もそうであったし、その職場に来てからも、要領がいい人ならさりげなく他人に押し付けて陰でペロリと舌を出しているような仕事を、いちいち引き受けていたし、よく徹夜で仕事をしていた。

忘れられないのは、彼が移植に向けた治療で入院と退院を複数回繰り返した後、いよいよ骨髄移植を受けるための入院を控えていたときのことだ。彼と、もうひとりの同僚と私の3人で今後のことを話した。移植後の職場復帰の計画を彼は口にした。

我々は、その時にはもう、白血病の方が書かれている闘病ブログのいくつかを読み漁っていて、骨髄移植がどれほどの負担を伴う治療で、社会復帰に通常どれほどの時間を要するかを知っていた。彼が「ありえないほど無謀な(と我々には思えた)」早期復帰の計画を語るとき、我々は当たり障りのないコメントを返すしかなかった。

移植から半年、合併症で消化器官の機能が落ち、その後肺炎を起こしてからはいっきに体力が奪われてしまい、職場復帰を果たせぬまま、同僚は旅だった。

葬儀で喪主の息子さんが、父は思い通りに生きたのだから、これでよかったのだと思うと語ったのが印象的だった。こちらがどんなに止めても、入院中に仕事のメールを書いていたり、移植前の一時退院で病院から職場へと直接向かうような自らの父親の性格を知り尽くしているというような、そんな表情だったし、きっぱりとした口調だった。喪主を務めるご子息の横で、衰弱されたご様子で終始俯いておられた奥様とは対照的だった。

治療におけるいくつもの意思決定の過程を、もちろん我々は知らない。しかし、彼はその白血病治療において、おそらく最大限に希望を通し、戦い、そして旅立ったのだと思う。本当にお疲れ様でした。

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