価値観の違いを繋げるモノ。
年末から元旦からたくさんのことを考えすぎて、noteにうまくまとめることもできず。自分の身に起こること、起こることを右に左に捌きながらの毎日でした。
この状況で、今とても私の心のベースを占めているのは「価値観の違う人との関係構築」。
例えば。
自分がものすごくバスケが好きだとして。団体競技のバスケにしか目がない嗜好があるとして。
果たして、個人競技の陸上競歩が大好きな人と心から友人になれるのか?
初対面同士で相手の「好きなスポーツ」しか、事前に情報が与えられていなかったら、最初は探り探りになりそう。探るから、なんか気を遣って疲れそうだし。難しそうだ。
一方、ある程度の友達であっても、お互いにガッツリそのスポーツが好きだからこそ、あえてお互いの大好きなスポーツの話題には触れず、違う共通項の話しでお茶を濁すかもしれないな。天気とか共通の知人の話とか。差し障りなく。穏便に済ませそう。
でも。
もちろん、全然そんなことはお構いなく、それぞれが自分の大好きなスポーツの話を話しまくって楽しく時間を過ごせる場合もあると思うんです。
この差って何なのかなーと。
もちろん「コミュ力の差」とすぐ浮かびますが、じゃあその「コミュ力」って何なのかなー、と。
たぶん、細かくみていけば「違うスポーツが好きなモノ同士がそれぞれのスポーツの話題で盛り上がる」といっても、ナチュラルに楽しい会話になる場合と経験値の高い慈愛に満ちた人のリードによって成立する場合、さらにはチカラワザでうっすらマウントをとられながらもなんだかんだで楽しめる場合等々、色々あるんだと思います。
#みて!ここ↑に超面倒くさい奴(=私)がいるよ‼︎
私が好きなのは「ナチュラルに楽しい会話」コース一択なので。
「ナチュラルに楽しい会話」になる時って、どんなだっけかなー?と思い返すと、別に相手も私も高いコミュ力があったわけじゃなかった。むしろ、お互いコミュ力はポンコツだった笑。
ならば、何が潤滑剤になっていたのか。
生まれつきの性格?
その場のノリ?
話す時間帯(夜のナチュラルハイ時的な)?
相手との相性?
うーん。考えて、ハタと気づいたのは
「想像力」
…でした。
そりゃ、性格は堅いより柔らかい方がいいかもしれないし、その場のノリの良さも必要、話す時間帯も関係しているかもしれないし、相手との相性だって悪いよりいいにこしたことはない。
でも。それら条件が揃っていても、お互いに「想像力」が欠如していたら「ナチュラルに楽しい会話」は難しいなと。
「へぇ、競歩ってそんなこと考えながらやってるんだ‼︎」
とか。
「あの3ポイントに、そんなドラマが‼︎」
とか。
こちらが伝えることを楽しくイメージできる人と話すと、世界がナチュラルに拡がるから楽しい。
それはスポーツじゃなくても、好きな動物でも、食べ物でも、国でも同じ。何でもいい。
お互いの違う価値観の溝、あるいは谷を埋めたり、繋げる橋となるのが「想像力」なのではないかと思ったのでした。
逆に相手が大好きなスポーツの面白さをイメージできないと決めつけて「そのスポーツの面白さは私にはわからない」とシャッターを降ろしてしまうと、何も拡がらない。それは実に実り少なく、貧しいことだなと個人的には思います。
だから。
昨日、チラッとニュースになっていた、とある国会議員がアイヌの人々等に対する発言について「何が問題なのかわからない」とか、その発言に傷ついた人がいるかは「わからない」と発言しているのは、自分と価値観の違う相手と繋がる気なんてサラサラないという意思表示だな、と。とても貧しく実りの少ない発言なのだな、と。想像力のカケラもない非常に閉じた世界にいるのだな、と。思ったりしています。
そんな想像力のカケラもない国会議員さんが描く『美しく豊かな国・日本』ってどんな感じなのかしら。
ほんとに。選挙行かないとね。
#私は想像することを拒否する人に優しくできるほど人間できてませんとほほ鍛錬鍛錬
私は、その人それぞれが多かろうと少なかろうと自分のもてる想像力を駆使して、無邪気に橋をかけたり、かけてきてくれる人と溝を笑いで埋めつつ繋がることが幸せだなと思います。
ということで。
価値観の違う人と幸せな関係を築くにも「想像力」って意外と大事、というお話でした。
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