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私は後者

「優しい人」と「お人好し」は紙一重であると思う。文字通り両者の差異はほんの僅かで、その境は少なくとも私には到底分からない。でも分からないなりの解釈を少しばかり書いてみようと思う。
私はよく「優しい人だね」と言ってもらえることが多い。褒められたら素直にお礼を言う事が大切だと思うからありがとうって返すしとても気分が良くなる。でも本当の私はたぶん「お人好し」だと思う。私の思う「優しい人」って強い人。それは見た目が強そうとかそんな事ではなく、意見が言える人、是非を理解し自分を生きてる人だと思う。一方「お人好し」は人を喜ばせたい、人のためを想うあまりに他人の期待通りに生きてる人だと私は思う。なぜ私は後者なのか。

高校の頃からイジられて生きてきた。もちろんすごく楽しかったしみんなが笑っている空間が好きだったから毎日幸せだった。と、思っていた。
たまに家に帰るとなんとも言えないモヤモヤ感が体にまとわりついて離れなかったり、学校でサラッと言われた冗談に笑えない時があった。そんな自分の小ささに嫌気がさして、当時の自分が大嫌いだったのを思い出す。でも特にその日常が良くも悪くも変わることなく高校を卒業し無事、大学に入学した。新しい環境でできたたくさんの先輩や友達、彼氏に恵まれて本当に幸せな毎日を送った。大学で出会う人はみんな、私を全肯定してくれてたくさん褒めてくれて、慣れてなさすぎて最初反応に困るくらいだった。この時から私は私のことが少なくとも嫌いではなくなった。いわゆる自己肯定感が上がったんだろう。この場を借りて、いつも本当にありがとう。


大学生になってからも定期的に集まる高校のグループがあった。私はそこで初めて足取りが重い感覚に陥った。友達と遊ぶことは大好きだし高校の頃の友達はみんな別の進路に進んでいたため、わざわざ時間を作ってまで会おうってなる関係は本来素晴らしいし大切にするべき関係である。私は大切にしないと、そう思って会った。
半年ぶりに会うと、やっぱり楽しい!この感情一つしかないと思ったのだけど、私の場合帰る頃にははぁっとため息をつきたいくらいのなんとも言えない感情だった。  近況を話していると飛んでくる否定的な言葉。冗談であることはわかってる。いつものように笑えばいい。のにそれができない。なんとも言えない感情の原因だろう。

自己肯定感って本当に不思議で、低い時は何を言われても「その通りです、私が間違ってます。」この考えが感情を支配するのに、高い時は「なんで私にそんなこと言えるの?あなたは私の何?」って相手の発言を冷静に、客観的に捉えてそれを真に受けないでいられる。私は大学生になってから恵まれた環境で生活していたから否定的な言葉に対する忍耐力が落ちていたこともあるが、それ以上に周りの人のおかげで自己肯定感が高まっており否定的な発言をする意味が分からなかった。もちろんその場は笑って流して終わったのだが、私はこれから先も続く関係にどう対応したらいいのだろうか。
ここで「お人好し」の話に戻ろう。ここまで読んでくださった方がいましたら、心からありがとうございます。そして一つ問いたいです。私は「優しい人」でしょうか。私の定義する自分を持った、自分を生きている人でしょうか。きっと多くの方は嫌われたくないとか、関係を壊さないために空気を読んでる私を、「あぁ、お人好しで生きにくそうな人」と思われたのではないでしょうか。私も自分自身について綴っていてそう思います。
「お人好し」は根本的には優しい人だと思います。人が好き故に何でもしてあげたいし、自分の行動が役に立つととても嬉しい気持ちになります。
私は典型的なそれだと文字に起こすことで実感した。優しさで取っていた行動が、気づけば人の顔色を伺う行動に変化してしまっていたのである。私たちが生きる世の中は皮肉なことに、絶対に、自分を悪く言う人がどの世界線でも存在する。それなら一緒になって自分も自分を悲観する必要があるのだろうか。自分は、自分だけはいつでも、自分の最大の味方でいたいものである。そのために私は今日で「お人好し」を卒業し、「優しい人」として生きていこうと心に決めた。

拙い、読みにくい文章を最後まで読んでいただきありがとうございました!
#人間関係 #めっちゃ難しい#歳重ねるほど難しい#だから楽しい#自分とは#永遠の課題

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