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♪物部氏と郷土史の研究


♪神功皇后

崇神天皇だかその位の時期、北陸に大彦命、東海に
武淳川別、あと、西道(瀬戸内海)、丹波(京都)に、
それぞれ部隊?を派遣して、蝦夷を恭順させようとした。

こやつらを、四道将軍という。

もとは関東東北に中心があったものが、大和に
勢力が移動して、土着の部族は、納得出来なかった
か、情勢の変化を知らなかったのかもしれない。

元同化ユダヤの勢力も、各地に散らばって
おり、何らかの問題があったように思われる。

更に、景行天皇の頃(4世紀?)、武内宿禰を、
福井~東北方面に派遣した。

宿禰の東征を、北海征伐という。

神功皇后の代にも北伐の伝説があるが、不明である。

神功皇后の別名は、息長帯比売命(気長足姫尊)
といい、仲哀天皇の皇后であるが、実在は不明である。

神託(預言)を扱えるエスパーで
あったので、卑弥呼と同一視される。

卑弥呼は、日の巫女(預言者)が本当であるが、
魏のクソ役人が、見下して、と書いたのである。

従って、卑弥呼は、固有名詞の名前ではない。

同一視が事実であれば、神功は、
魏国の時代であるが、不明である。

神功皇后の、三韓征伐の伝承によって、
息長帯と命名されたようである。

武内宿禰は、神功皇后の側近の一人である。

仲哀天皇は、九州の、熊襲平定の際、
何らかの祟りで死亡した。

宿禰の神託(預言)で、皇后は、新羅征伐に向かった。

皇后は、懐妊していたため、男装で出兵した。

以降は、卑弥呼のページを参照。

最初の記事は間違いで、恐らく、三国志の
時代であろうと、今のところ、そう推察している。

♪蘇我戦争

6世紀後半、仏教の蘇我氏と、神道(多神教)
の権威、物部氏の争いで、物部氏が敗れる。

広義の物部氏である、田中教授の説はこの後。

政争に敗れた物部氏の一部は、北陸から東北に逃げた。

最終的には、東日流まで流れ、長スネ彦の
末裔、荒吐族に匿われた。

荒吐族は、大陸や西域の技術を吸収しており、
物部氏の、軍事の技術を取り入れ、後に、安東
水軍
として、日本海で暴れた。

仏教の伝来は、522年頃、元漢人(帰化人)
の、司馬達止が、奈良の坂田村に、仏像を
建立して、拝んだ頃に始まる。

この頃の、帰化した中国朝鮮人を、漢氏(あやし)と呼ぶ。

後述するが、ユダヤ帰化人が、秦氏(はたし)である。

552年、欽明天皇の時、百済の聖明王が、
仏像を送りつけ、百済の帰化人、蘇我氏
(蘇我稲目)
が、仏教の構造改革を推進する。

欽明天皇が、仏像を拝んだところ、国内に
天然痘がパンデミックして、神霊の祟りが起きる。

一端、仏教導入が保留になったが、稲目の
息子の、馬子が、政治工作して、再び、
仏教派が盛り返した。

ところが、またしても疫病がパンデミック
し、欽明天皇の次の、敏達天皇は、仏教撤廃
を宣言した。

ところが、次の、用明天皇が、馬子の
一族を皇后にしたせいで、仏教と神道の、
習合を決定した、
のである。

その後、ドロドロの政治闘争が、朝廷
で繰り広げられ、最後は、聖徳太子の奸計
で、仏教派が勝利した。

だいぶ端折ったが、以上が一般書籍上の話である。

__________________

ここから田中教授の講義である。

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蘇我氏は、百済の帰化人とされているが、
やはり、ユダヤ系であり、武内宿禰の
一族の末裔である。

武内宿禰は、秦氏の一族、同化ユダヤ人である。

宿禰は、知の人かと思いきや、ブルーザー・ブロディ
みたいな、長身の軍人(武人)であるらしい。

蘇我氏は、キリスト教徒(ネストリウス派)の
同化ユダヤ人
であり、純なユダヤ教ではないという。

蘇我は蘇るという意味で、キリスト教の、復活である。

聖徳太子は、キリストの説話をそのまま
プロフィールにしており、この人物も、
蘇我氏の一味、同化ユダヤである。

仏像は、西域で作られて、西洋人をモデルに
しており、釈迦ではない。

蘇我氏の頃から、列島に導入された仏像は、
西洋チックなユダヤ人の顔をモデルにしている。

日本の仏像はインド人ではない。

釈迦と菩薩だけは、縄文人チックな風貌にしている。

現代にかけて、日本人の9人に1人は、
遺伝的に、同化ユダヤ人である。

クラスで、最低3人くらいは、ユダヤ・
イスラエル人と似たDNAである。

日本に土着したユダヤ人を、同化ユダヤ人
といい、縄文や越人との混血で、日本人化した集団である。

815年、嵯峨天皇時代の、古代氏族名鑑
によると、列島の氏族、豪族は、神別、
皇別、諸藩
に分類されている。

諸藩は、渡来人や帰化人で、
混血ユダヤ、同化ユダヤ、漢氏(中国朝鮮人)である。

弥生人は、この連中や、混血した縄文人である。

神別は、古事記時代の登場人物、建国者で、
実在していた(神格化された)氏族、豪族である。

東北関東の高天原から来た建国者、レジェンドである。

皇別は、神武天皇から始まる、大和王朝
が出来て以後の権力者、皇族
である。

その、古代氏族名鑑によると、蘇我氏は、
秦の始皇帝の末裔こと、弓月国出身である。

弓月国は、新疆ウィグル西方に位置し、帝国の紛争で
離散したユダヤ遊牧民が、この辺でウロウロしていた。

秦国は、そいつらが、いつしか支配していた国である。

始皇帝の孫(三代目)の、弓月君(融通王)率いる
混血ユダヤ集団は、応神天皇の時代に渡来、同化した。

BC200ーBC100年くらい前の時代である。

その末裔が、秦氏族および、一族の、宿禰や蘇我氏でがる。

秦氏は、朝鮮を経由して渡来したが、紀元前
2世紀(BC200ーBC100)
くらいの、南朝鮮は、
辰韓と呼ばれており、秦氏の支配地であった。

辰韓は、秦を当て字したもので、秦韓(秦国)である。

シルクロード、弓月方面を通ってくる、
ユダヤ人、同化ユダヤが屯していたため、
秦国(辰国)と呼ばれていた。

百済、任那、新羅の三国が、秦である。

弓月(ウィグル西方)ユダヤの方言が、秦韓で
混ざって、朝鮮語の発音っぽくなったようである。

新羅の新も、秦に当て字した場所である。

ユダヤ人は、古代から権謀術数に長け、個人主義
傾向がある
ので、秦の始皇帝、項羽、蘇我氏の
ような、残忍な真似を平気で行う気質がある。

一神教や、現代に通じる、ユダヤーキリ
スト教的な気質でもある。

個人主義のため、内部分裂が多く、
南朝鮮でも、主張による争いが多かった。

蘇我もそのクチで、崇峻天皇を暗殺したが、実行犯
は、中国朝鮮系(漢人)の帰化人である。

中国朝鮮の帰化人は、大和漢氏(あやし)と呼ばれる。

奈良等で、仏像を拝んでいたのは、こういう
連中で、蘇我に騙されて、下っ端で使われていた。

天皇暗殺後は、オズワルドチックに、口封じをされた。

内部分裂を緩和したのは、縄文の多神教的な
自然信仰であり、秦氏は、我の強いユダヤ気質に
古神道を取り入れて、倭の同化に成功した。

蘇、我、と命名したのは、後年、記紀を編集
した連中なんで、自ら名乗っておらず、蘇我氏
の本名は違う?

或いは、本人が当て字したのか?いまいち不明でがる。

蘇我のプロフィールは、古事記編纂のおり、
稗田が、蘇我が、キリスト教徒である事実を
記すために作った名前である。

キリスト教の厩戸皇子、仏教の聖徳太子
命名したのも、記紀の編集者なのか?。

馬子と命名したのは、馬を引く小者チック
な、侮蔑的なイメージにおいてである。

蘇我氏は、朝廷では、悪党扱いで嫌われていた。

仏教は、弓月らの、ユダヤ・シルクロードで、
中国朝鮮に輸入したものである。

辰韓(秦国)の秦部族が信仰してる仏教と、
蘇我氏が信仰してる仏教感覚は違っていた。

秦氏は、当初から倭の古神道に同調して、
神道的な感覚を伴う仏教であった。

自然信仰(太陽や山岳信仰)+仏教が、朝鮮秦氏の
宗教観で、後の修験道、密教(雑密)の原点になった。

しかし、蘇我氏は、西域のキリスト教と釈迦教(仏教)
同一論支持者
で、景教(ネストリウス派キリスト教)的な
仏教
を、導入しようとした。

釈迦の仏教は、地中海にも広がっていて、
ローマーキリスト教にも取り入れられていた。

蘇我氏は、ローマーキリスト教の
支持者で、一神教的なイズムを、権力に使用した。

主義が違うということで、神道派の、大和
秦氏(秦河勝)、物部氏
を、陰謀で排除した。

♪聖徳太子

蘇我氏族は、権力に入り込んで、皇室の側室を
支配し、蘇我の手先から、厩戸皇子が生まれた。

蘇我は、釈迦の仏教徒ではなく、景教(ネストリウス派)
を信じており、皇室を、キリスト教徒にしようと画策した。

そうすることにより、蘇我氏が、皇室を自由に操縦できる。

厩戸皇子は、キリスト教ではなく、仏教の方を
取り入れようとしたため、太子夫妻を暗殺(毒殺?)した。

ところで、ネストリウス派は、キリストは神ではなく
であり、マリアの聖母受胎を無視した教義である。

431年、東ローマ帝国は、ネストリウス派を異端教
と認定し、信者の、ユダヤ人らは、キリスト教国
から追放された。

追放されたユダヤ人は、ササン朝ペルシャから、西域~
モンゴル~中国の経路で逃げてきて、中国の仏教では、
景教と呼ばれた。

蘇我氏も、そういう連中の一種か、中国朝鮮の
キリスト教徒と通じていたのである。

♪秦氏

秦氏は、ユダヤ系渡来人の、部族の通称である。

秦は、ヘブライ語のJINを漢字にした名前である。

朝鮮と大和秦氏の歴史は、始皇帝から始まるが、秦自体は、
BC9世紀、周の時代から起こっている。

詳しくは不明でがるww。

蘇我と対立した、物部守屋は、諏訪の同化ユダヤである。

蘇我戦争とは、同化ユダヤ同士の戦いだったのである。

諏訪の物部は、土着して、守矢氏になった。

諏訪守屋では、アブラハムとイサクのエピソード
伝承されておるが、物部氏が、諏訪に伝えたものである。

アブラハム本人が、縄文に同化したかは、不明である。

倭の、秦氏の元祖は、徐福と、秦のユダヤ系集団である。

徐福は、秦で同化して、漢字で名乗ったが、
ユダヤの名前は、ジョセフ(ヨセフ)である。

イスラエル12氏族の、どれかの氏族の一人である?

つまり、徐福の末裔が、物部守屋、守矢氏であり、
先祖の、ユダヤ教(旧約聖書)の、アブラハムの
伝承を、諏訪に伝えたのである。

中国の秦国に土着(建国)したおりは、ヘブライ語
の名前から漢字に変え、更に、倭に土着して、現代
読みに通じる、訓読み、苗字に変えた。

秦⇒羽田など、沢山あり、地名も然りである。

で、ネストリウス派は、キリストと、
仏教の釈迦を、同一視した。

仏(釈迦)が、弥勒菩薩として、地上に
蘇り、信徒を救済する部分
が、キリスト
教の再臨と一緒である。

その思想(教義)は、大乗仏教で創作された
神話で、釈迦とは関係ない。

地中海のキリスト教徒(ユダヤ人)と、
インドの仏教徒の交流で出来たものである。

マニ教など、複雑そうな経緯があるが、
そこら辺は、端折る。

法隆寺の、救世観音は、仏の弥勒では
なく、キリストの救済を表現した仏像である。

これってキリスト教じゃん?と思われて、
都合が悪くて、救世観音は、200年くらい、
非公開にされたwwww。

景教ーユダヤーキリスト教の蘇我は、その、
救済的な教義の信徒である。

釈迦(仏)の救済より、キリストの
救済の方を前面に出したかった
のだが、
仏の建前上、仏教徒という形で、内緒にした。

しかし、どうしても、キリスト教を組み込み
たかった蘇我は、仏の信徒、協力者を、こっそり、
暗殺していった
のである。

♪高天原(日高見国)

日高国(高天原)とは、東北~関東の事である。

東北には、天照大神、と、出羽三山に、月読命
がおり、出雲に、素戔嗚命がいる。

素戔嗚命はユダヤ人のことである。

天照の神話では、素戔嗚が暴れて、出雲に追放
される下りがあるが、ユダヤ人が、東北の日高見国
から追放されて、出雲に移動した、
という比喩である。

瑞穂の国とは、関東の事で、縄文当時、河川が
豊富
で、縄文人は、水(瑞)の信仰をしていたのである。

縄文の、竪穴式住居は、水神信仰をするためである。

当時、水産資源や山林資源が豊かであったため、
縄文人は、自然信仰をしていたのである。

中東のような、荒れ地の信仰とは、違う信仰である。

太陽も、山林の自然信仰の一つであり、
木で櫓を組んで、社を作ったのである。

縄文の火炎土器は、水神信仰で水をデザインした
ものであり、対数螺旋は、水流の比喩である。

上部のギザギザは、を現したものである。

日高見国の、太陽神は茨木の日立におわし、
茨木が崇敬の中心で、天照の原点である。

何もない場所と思われてたものが、意外である。

鹿島や香取は、政権的な地域
で、港や、
関東で鉄が採取できることから、軍事的
な要素があったようである。

♪素戔嗚

三貴神の、月読命(月神)は、食料を現し、
天照大神(太陽神)は、政治的、国家的なもの
を表現した神である。

素戔嗚は、を表現する。

古事記に、星の神が存在しない理由は、
太陽神の終着地点が、列島だったせいである。

よって、事実を端折っているが、素戔嗚は、
星の神でもあるのだが、海の神で統一した。

素戔嗚の、スサは、ヘブライ語で、という
意味があり、(武人的な)騎馬民族的な意味がある。

つまり、海から来た騎馬民族という意味である。

東北~関東の、高天原では、縄文人が、太陽神
(天を照らす神)を、天照大神として信仰していた。

高天原族のクビ長が、高御産巣日神であり、
東日本縄文の、原天皇である。

高天原では、代々のクビ長を、高御産巣日
といい、素戔嗚族の遥か以前から存在していた。

古事記に、東北~関東の、王朝の記録を
記してない理由は、政権が、畿内に移動
したため、支配層の、同化ユダヤの末裔
(秦氏など)が、削除したため
である。

或いは、古代蝦夷の伝承が、口伝のため、
ぼんやりとしか残っていなかった、ためである。

文化が、土人だから残らなかった分けではない。

素戔嗚族は、高天原に、異文化を持ちて
やってきたが、関東民と性質が合わなかった
ために、出雲方面に追放された。

素行が乱暴なために、天照が追っ払った件である。

東日本が、古代からの縄文人文化の地だった
のに対し、西日本は、まだ未開の地である。

半島経由で土着した、ユダヤ人や混血ユダヤ
が、畿内や出雲あたりに、ウロウロしていた。

素戔嗚族も、それらの人種であり、一部は、
関東、東北で、蝦夷になった。

素戔嗚族は、一端は関東に土着して、東北まで進出
しており、岩手県に、五芒星の痕跡が残っている。

ユダヤの五芒星は、素戔嗚族の痕跡で、星の神を現す。

五芒星は、もともと、中東で拝んで
いた、星の神(航海、遠征の神)の記である。

素戔嗚を祀る八坂神社や、京都の寺に、五芒星の
痕跡が多いのは、秦氏が残したからである。

ダビデではなく、素戔嗚の五芒星(星の神)
にしたのは、秦氏が、倭の神話に、帰順
していたからである。

八坂神社では、素戔嗚を、牛頭天王と呼ぶ。

牛頭天王は、インド仏教(密教)の神であるが、
ユダヤ教に、牛の頭を切る祭りがあり、インド
ではなく、ユダヤから来た話のようである。

八岐大蛇の神話は、もともと、インドや中国
の話を、素戔嗚族か、他のユダヤ人が、持って
きた、蛇神信仰の話である。

八岐大蛇と、龍は、恐らく同一である。

龍、龍神は、古代から概念が存在し、中国、インド、
東南アジアなどが起源らしいが、ハッキリとは分からない。

中国で流行、定着し、龍信仰は、
現代においても、ブレイクしている。

龍は、海の神でもあり、恐らく、素戔嗚と一緒に
倭に来たのではないかと思うが、不明である。

後に、密教と融合し、龍神信仰として定着した。

素戔嗚族は、出雲に土着し、王朝を作った。

その、6代目の末裔が大国主命であり、
関東の日高見国に脅威を与えた。

鹿島王朝は、その対抗のために、大和(奈良)
に王権を作ったのである。

そして、出雲の国譲りに繋がる。

♪クナトの神

ユダヤ人は、古代から離散を繰り返し、
安住した土地が無かった。

離散した後は、他の国で同化して土着した。

現代のイスラエルは、昔から住んでるユダヤ人
半分くらいしかおらず、神話的ではない。

キリストの痕跡も薄いものであり、
関係者は、やはり離散している。

大国主の代から、代々残された口伝を、出雲口伝という。

現代に残された口伝には、4000年前に、一夜にして
氷の山となった地帯から、難を避けて、海沿いを
超えて、大祖先のクナトの大神が一族を連れて、
何代もかけて、出雲に辿り着いた
、という伝承が残されている。

その、渡来集団を、天之日矛と呼び、
日矛は、出雲に度々来ていた。

クナトの大神は、年代は曖昧だが、概ね、モーゼの
時代
と整合しており、その時期の、離散ユダヤ人が、
出雲に来た、大先祖のユダヤである。

クナトの神は、西域や中国など、大陸の技術、
鉄鋼、農耕、機織り
などを縄文に伝えた。

後年の、秦河勝は、西域や中国の、河川工事の
技術を持ってきた同化ユダヤ人であり、川に勝つ
という意味である。

クナトは、来な処(くなど)のことで、
来てはいけない、という意味である。

戻れない場所から来た神、という意味である。

天之日矛は、記紀の、渡来人のことであり、
新羅(秦羅)から来たとされる。

日矛は、ホヒ族とも呼ばれる。

九州の天孫族も、ホヒ族であり、同化ユダヤの部族である。

新羅の、東朝鮮から、ローマの装飾品が発掘
されており、シルクロードから来たユダヤ人が、
商売のために持ってきた物品(商品?)である。

シルクロードは、黄土高原が終着地点
ではなく、朝鮮を経由した、倭が終着である。

ヘブライ語で、カミ(神)は、クビ長
(リーダー)
という意味である。

シルクロードから出雲に来た、ユダヤ人部族
のクビ長は、商売や縄張りの談合をしていた。

出雲に、神が集合する、という神話は、
クビ長達の、集会の事である。

57代続くのクナトの神は、それらの部族を
纏めていた
、モーゼ所縁の人物、大酋長である。

素戔嗚が、大酋長の初代だが、モーゼなのか、
他のユダヤ人なのかは、不明である。

記紀の、天孫族は、鹿島(高天原)から、九州
に西征して、王権を作った連中
である。

九州の天孫族の武人に、武甕槌命という
人物(武人)がおり、出雲の、大国主の代に、
圧力をかけてきた。

鹿島ー九州の天孫族にも、ユダヤ騎馬民族の
末裔がおり、同化ユダヤ人同士の、戦いになった。

大国主の息子の建御名方神が、天孫の武甕槌命と
戦ったが、敗れて、越国(新潟)まで敗走した。

出雲の、建御名方神の一族は、更に、越から
諏訪に移動して
、そこで土着した。

これは、記紀の方の伝承であるが、出雲口伝や
諏訪などの伝承とは、違うようである。

つまり、土地や豪族の話と、記紀の編纂とは
食い違いが出来ている
、ので、事実は違う。

この辺は何やら複雑だが、鹿島系縄文族+同化ユダヤ?
と、出雲系同化ユダヤの、二系統の勢力
がおり、
何かにつけ衝突したが、最後は、出雲の方が
折れて話が付いて、国譲りが成立したのである。

太陽神の日子である、先住部族を、
リスペクトしたのである。

国譲りの代わり、出雲の同化ユダヤ部族は、
神殿を建設したり、東国にも進出できたのである。

鹿島系のクビ長は、高御産巣日神で、何代か
後の末裔が、神武天皇である。

大国主は、素戔嗚族の、直径の末裔では
なく、出雲ユダヤ文化圏の部族の一人である。

ワニのエピソードがあり、ナイル川とか、
エジプト系統のユダヤ人ではないか?

♪武内宿禰

縄文を中心とする、東アジアやインドの宗教観は、
人格を持った人間的な神は存在せず、漠然とした
自然信仰の感覚である。

それを、アミニズムといい、その時点では、
神という概念は、存在していなかったのである。

神が、人間の社会に出てきたのは、支配的な
宗教権威が発生してから
である。

更に、キリストや仏など、人格を持ち合わせた
に変化し、悪魔もその一種である。

思考が発達して、神という情報が現れ、
複雑化していったが、最初は、概念が
無いから、いわば、無神の信仰である。

縄文神道が、そういう原始的アニマなのである。

神は、それより後年で、神=人間の支配と言っても良い。

で、縄文に、神を持ち込んだのは、仏より
以前の、ユダヤ人である。

ユダヤが来てから、日本に神の情報が生じて、
後に、仏も神になったのである。

遺伝的、無意識的に、それが続いているが、
物理的な再生や魂は、宗教とは、また別の話である。

知識層は、この二つの情報を混同してはいけない。

再生の方は、宗教ではなく、宇宙論や
理論物理、量子遺伝科学の範疇
である。

で、国譲りのエピソードは、個人主義で我の強いユダヤ人
が、元来、宗教権威が無かった縄文に、如何にして
同化していったか
、一つの指標となる。

最近の、田中教授の研究では、ユダヤ系は、
秦氏だけではなく、幾つかの豪族が存在して
いたようである。

葛城氏、紀氏、古勢氏、蘇我氏などで、蘇我と秦は、
豪族的に分離しており、その段階で一緒の氏族ではない。

物部氏も、分離した豪族である。

幾つかの、同化ユダヤ系豪族から、更に、
色々な苗字の豪族が、分岐したのである。

前方後円墳の、先っぽの丸い部分は、
エジプトの技術の、ピラミッド仕様になって
おり、技術を持っていた出雲系同化ユダヤが、工事をした。

つまり、共同作業であり、この時代
には、出雲と天孫が、統一されている。

蘇我氏は、武内氏から分岐した豪族で、
神功皇后の、熊襲征伐や、三韓征伐では、
宿禰の軍として、同行していた。

宿禰の軍は、ユダヤ騎馬民族仕込みの威力があり、
高句麗などと戦っても、引けを取らなかった。

南朝鮮の辰韓(秦国)は、朝鮮秦氏が支配
しており、大陸から来る、同化ユダヤやユダヤ
の、受け入れ窓口だった。

辰韓の秦氏は、黄土高原とは、一線を規しており、
三国志時代でも、支配は受けなかった。

シルクロードと中国を通って朝鮮に辿り着く、
離散したユダヤの部族は、始皇帝以降も、大勢いたが、
朝鮮では、朝鮮秦氏で統一されていた。

で、朝鮮から倭(出雲)に下ったおり、武内氏、蘇我氏
などの、個別の固有名詞を、当て字で名乗ったのである。

鹿島から、九州や畿内に来た、縄文と同化ユダヤの
集団は、天皇を中心とする部族で、強固に統一されて
いた
が、出雲の同化ユダヤ部族は、寄せ集めの集団である。

出雲系が幾つかの氏族に分かれて
いたのは、そういう理由による。

天皇家の、欠落八代の時代、出雲同化ユダヤ部族
の女は、鹿島天皇家の部族と婚姻し、皇后となった。

出雲ー天孫の、同化政策であり、出雲の方が
先人ユダヤを、サポートする形式になったようである。

出雲系部族の皇后を、事代主神という。

代は、のことであり、石造建築の
ピラミッドや、瓶(棺)の部族の、比喩である。

関東には、事代主系の神社が沢山あるが、
出雲系部族が、関東中に拡散した証である。

建御名方神が、越ー諏訪の経由で移住して
以来、出雲の氏族が、関東、東日本に散ら
ばったようである。

日本書紀、第八代孝元天皇の孫、屋主忍男
武雄心命の息子が、武内宿禰である。

豊前では、宿禰を黒男神と呼んでおり、
宿禰は、祭祀もしていたが、武人の人物であった。

諏訪の相撲なども、ユダヤの武人の名残であり、
宿禰は、武術として相撲っぽい格闘技をしていた。

酒なども、大陸からユダヤ遊牧民が持ち込んだアイテムである。

武内氏から分岐した末裔の豪族は、紀氏、葛城氏、
巨勢氏、蘇我氏、平野氏、大和秦氏など
であり、もとは、
朝鮮秦氏ら辺の、色々な、同化ユダヤ部族である。

♪神武天皇

大和とは、畿内のあたりで、
山を信仰していた部族という意味である。

記紀の神とは、先祖を崇敬する意味で、
神と名付けたのであり、自然信仰の対象と、
実在した人物が混ざっている。

よって、フィクションではない。

邇芸速日命を祀った神社は、千葉茨木に多く、
次いで、愛知と三重である。

天照は、日を照らすという意味で、縄文の東国
(関東東北)におわし、中心が茨木日立である。

邇邇芸命は、日の高い場所、日高見国
(高天原)からやってきた
という意味である。

高御産巣日神は、日高見を結ぶという意味である。

弥生時代は、朝鮮から南下したのではなく、
縄文海進時代から、寒冷化してきたので、
東北ー関東ー西日本と、北から南下したのが正解である。

同時に、縄文人は、台湾、沖縄方面からも、
九州に北上して文化圏が移動した。

海幸彦山幸彦の神話に、塩爺(しおつち)という
神が出てくるが、塩はのことであり、海流の神である。

塩釜大社が塩爺であり、縄文人は、その辺
から、海流に沿って関東方面に南下していった。

鹿島に文化園を定着して、更に、船で、
鹿児島に上陸したのである。

鹿児島は、鹿島の日の子という意味であり、
クビ長の、邇芸速日命のことである。

記紀の天孫の件では、邇芸速日命と邇邇芸命の、
二系統出ているが、家系は一緒である。

恐らく、兄弟で、九州に西征したようである。

令和天皇と、秋篠宮様みたいな?

隼人や熊襲は、その時に、九州に土着
した、鹿島部族の連中である。

邇芸速日命の末裔は物部氏だが、
武術に長けた一族であった。

同行した、武御雷神も武術の人物である。

邇芸速日命の孫である、神倭伊波礼毘古命
(神武天皇)
は、16年かけて、日向から筑紫、
瀬戸内海を通り、畿内(浪速)に進出、定着した。

だいたい、BC660年頃の出来事である。

当時は、天皇の名称は無かったため、
神や命の名称なのである。

伝承を記録したのは、稗田であるが、当時の
状況は不明である。

基本、争いは無く、話し合い、若しくは
権威的な概念で、鹿島から来た天孫族に、
統治権を譲った。

太陽神は、東国にあり、古代からの日の神
が来たという意味において、ユダヤ人も納得である。

熊野の八咫烏は、太陽のシンボルであり、
太陽神が、お導きして、紀伊に来たという意味である。

神武天皇は、奈良でお亡くなりになり、
畝傍山に古墳(墓)を作った、天皇を祀る
神社が、橿原神宮である。

♪ヤマトタケル

蝦夷の、夷は、弓、蝦はエビ(海産物)
という意味で、狩猟採取民族を意味する。

狩猟採取の信仰が、古神道(縄文神道)である。

神武天皇が、大和に勢力を作って以来、
関東の部族は、権威が無くなっていった。

景行天皇のころ、九州に土着した、鹿島の
隼人や熊襲は、関東の権威不足に不満を持ち?
有力者(皇族?)が、朝廷に文句を言った。

こういう、大和に政権が出来て、不満を
持った、関東東北の、日高見国の連中が、
蝦夷と呼ばれたのである。

蝦夷は弓を扱い、非常に強靭だった。

その一部は、同化ユダヤ人で、騎馬や
武芸に秀でていた。

大和国の景行天皇は、蝦夷鎮圧のため、大彦命
などの、四道将軍を、北陸、東海、吉備に送るが、
蝦夷(東国の豪族)は言う事を聞かず、
上手くいかなかった。

次に、ヤマトタケルを、東国に送り込むが、
東国に遠征する前に、滋賀の伊吹山で、蝦夷
に撃たれて死亡した。

死後、白鳥になって、日高見国に東征
出来た
、チックな抽象物語が出来た。

で、何故か、ジャンヌダルクが死んだとき、
似たような神話が、フランスに出来たが、
恐らく、遊牧ユダヤ人が、日本神話を伝え
たのではないか、
と、推測する。

その後も、度々、東国に武人を派遣し、
坂上田村麻呂の頃、ようやく、東北まで、
大和国の柵(城)を置くことが出来た。

北海道にも、古代から縄文人がおり、
寒冷化で、南朝鮮に進出していたようである。

北海道の縄文人は、蝦夷でなく、記紀
では、文化圏が不明である。

チンギスハンの頃、大陸から北海道に
逃げてきた集団がおり、ようやく、実体
が明らかになった。

♪徐福

千葉県山武郡芝山古墳群の、3~4世紀ころのユダヤ人埴輪。

長身の埴輪が、ユダヤ騎馬民族の武士である。

日本神話の白装束のモデルは、こいつらである。

西洋人が来るわけないと思い込んでいた、
日本の学会は、埴輪を見て、朝鮮人と錯覚した。

マルコポーロやコロンブス、サビエルなど、
イタリア人やスペイン人などと思われていた
ものが、こいつらもユダヤ民族である。

ヨーロッパの、アドベンチャー系足跡は、
古代から方々をウロウロしていた、ユダヤ
民族が担当していたのでがる。

史記のロフイ(呂不意)は、レビィ(レビ)を、
漢字で当て字、中国名にしたものである。

始皇帝の周辺には、ユダヤ人(同化ユダヤ?)の
ブレーンがおり、徐福(ジョセフ)もその一人である。

東方の三神山は、富士山と、本州以外の
島(四国や九州、或いは対馬など)
では
ないかとの、田中教授の説である。

山だとすれば、阿蘇山、鳥海山、岩木山
など、山岳信仰の候補は沢山ある。

史記に、三神山と記述されている理由は、
早くから倭に、神話と、独立した王国が
存在していた
ことの、象徴である。

大陸のユダヤ人は、秦の時代には、既に
三神山の地理を知っており、始皇帝と
徐福は、計画的に移住した。

どこに上陸、移住したのかは、富士山なの
か他の場所なのかは不明だが、日高見国は、
この頃は関東(鹿島)にあり、関東のどこかである。

徐福の末裔は、分岐して、秦氏
(倭のユダヤ人)になった。

物部氏や藤原氏なども、徐福の分岐である。

中国では、一神教的、法治主義的な、
始皇帝政権だったが、関東は、ユダヤ遊牧民が
信仰する、太陽信仰のメッカだったので、征服
ではなく、そのまま同化したのである。

一神教である筈の、モーゼの申命記には、
ユダヤ人は散らばり、先祖達が知らなかった、
木や石の神(自然信仰)に使えよ
、と書いている。

つまり、多神教である。

縄文の信仰か、縄文同化へのフラグが、
旧約聖書に出ている。

徐福以前、モーゼ時代のユダヤ人、十氏族など、
遊牧ユダヤは、何度かに分けて、縄文に渡来して
おり、移住の基盤は、早くから出来ていた
のである。

始皇帝が、中国で暴君だったのは、黄土高原は、
異民族が周囲におり、魑魅魍魎状態だったので、
武力でしか統治手段がなかったからである。

離散した放牧ユダヤの理想は、太陽神の国
で、安住の地を作ることであった
ので、先住
民族の縄文人(日高見国)に、永住の代償と
して、技術や知識で協力したのである。

そこら辺、信仰の妙である。

渡来、帰化(同化)した秦氏は、8世紀以降、
ユダヤ渡来の痕跡を消した。

秦を、羽田、畑、八田、半田、矢田、川端
などの、ハ・タ系の漢字に変えた。

更に、漢字変換した、羽田氏等から、
色々な漢字の苗字に分岐、変化した。

沢山あるようだが、一部として、服部、神保、宋、
コレムネ、田村、島津、永田、長倉、辛島、小松、
大蔵、越、三林、ショウタク、高尾、高橋、原、恒、
井出、ハトツネ、長宗我部
、などで、更に、違う読み
や漢字
を合わせれば、相当数に上る。

秦氏の末裔は、日本人の9分の一くらいである。

これらの名前の、地名にも秦氏の支配した
土地か、何らかの関与が存在する。

例えば、羽田(空港)や高尾(山)などである。

その2は、機会を見て書くこととする。

♪結論として


神道と仏教は、当方は、習合しないで、
分けて考えている。

当方の理想だが、願望成就などは、
仏教の方で済ますべきである。

天皇を中心とする、祖先崇拝の方が、神道である。

習合が原因だが、墓前ではなく、神棚に自分の
先祖を祈るべき、
であり、逆のことをしている。

神道に、密教的な要素は入れぬことである。

そうすることにより、役割が明確になる。

仏教は、密教と、禅的なもんに分かれる。

密教や陰陽道は複雑奇怪だから置いておく、確かに
キリスト教が混ざっているが、それだけではない。

禅ではないが、苫米地理論の、空の思想を、
個人宗教として捉えている。

釈迦(仏)のためでもなく、自分のための宗教である。

覚醒を重要視する。

で、現代の仏教だけだと、国家や社会的な考えが
薄くなる、
から、神道で、国家の概念を考える。

この二つを並列することにより、
バランスを保てるのである。

あくまで、俺のウンコ考えである、理解できなけれ
ば、学問ではないから、無理に穿り返さないようにwww。

剃れと、再臨思想は、決して
ユダヤ・キリスト教ではない。

信仰ではなく、ナチュラルに起きている。

例えば、臨死体験である。

信仰してると、聞いたこともない
馳浩は、バックドロップか何かくらった
拍子に起きており、宗教とは関係ない。

主張してないだけで、そういう人は沢山いるだろう。

人体や記憶、時空間の不思議として捉えるべきでがる。

医学や物理の分野でおます、が、
工学的には解明されていない。

キリストの再臨と考えてるのが再臨思想
なんで、それ以外は、カルトだろうが、
個別だろうが、民主国家における自由思想だと思う。

自由思想を、自由権という。

どっちかというと、密教だな。

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