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【ネタバレ全開】映画「星の子」感想

タイトルの通り、ネタバレを自重せず映画の感想を記しておく。
(既に観ている方のみ、お読み頂くことをお勧めします)

カルトを体験し宗教問題にそれなりに関心のある私は、ぜひ観ておきたいと思ったので観たのだが…そこはかとなく切ない話だった。

「優しさゆえの迷い」を描き出す、切ない物語

病弱に生まれたちひろは怪しい宗教の水のおかげでどういうわけか快癒し、両親に愛されてすくすくと素直に育つ。
しかし両親はその宗教「ひかりの星」に傾倒するようになり、外で奇妙な儀式をしたり、ヘンな高額グッズにお金を注ぎ込んだりしていく。
ちひろの姉はそんな両親に反発して家出。伯父はちひろを心配しつつも、ひかりの星に否定的だ。

時が経ち、中学三年になったちひろ(芦田愛菜)。
ちょっと面食いな、一見どこにでもいる普通の中学生に成長した。

愛情をかけて育ててくれた両親のことはとても大切に思っている。
そしてひかりの星を信じている。物心ついたときからその宗教ありきの生活だったのだから、それが自然で当たり前になっているのだ。

一方で、ひかりの星信者としての日々の生活は、一般人のそれとは異なっていることも分かるし、教団が推奨することの全てに従っているわけでもない。

どっちつかずの信心のモラトリアムの中、教団のおかしな点が気になり出したり、ひかりの星と一般人との乖離を現実的に突き付けられたり等、ちひろの心は大きく揺さぶられていく。

家族への愛と信頼、ひかりの星へのささやかな疑問、これまでのままではいられない現実――その中でちひろの心は揺れ、迷い、明確な着地点を見いだせないまま話は終わる。

と、以上が大体のストーリーラインなのだが、作中では回想を交えながら、ほぼ一貫してちひろ視点で物語が進んでいく。

話にオチや結論、救いを求めるタイプの人、言い換えれば「分かりやすい話が好きな人」には、「どうしたい」という意志が希薄なちひろ視点のこの作品はひどく退屈に映るだろう。

一方で、ちひろの迷いや終始見せる素直さに共感し感情移入できる人は「とても考えさせられる物語」だと思うはずだ。
特に、ちひろと同じように「親を憎めない」「教団信者であることが当たり前だった」宗教二世の方の中には、ちひろに強く感情移入する方も多くいそうだ。

色んなものの見方があると思うが、私はこの話を「ちひろの迷いの物語」であると感じた。

家を出ていった姉のように、両親や教団を憎み切れず決別もできない(し、するつもりも全くない)。

そもそも両親は「ちひろの病気を治したい」と願ったことが入信に至るきっかけなのだから、到底責める気持ちにはなれない。(観客である私も含めて)

かといって、ひかりの星やそれを信じる大人たちに疑問がないわけでもない。

両親のことも姉のことも大切に思っていて、切り捨てるなんてできない。

そう、ちひろは優しい子なのだ。
とても素直で、とても優しい。

それ故にどっちつかずになり、答えを出せずに(あるいは、答えを出そうとすら思わず)迷うのだ。

優しさゆえの迷いの物語。
多感な時期、進路を決める時期、そのままではいられない状況であるからこそ、その迷いは深くなり心が揺れる。

どうか、優しいちひろに幸せがもたらされますように。
そう願わずにはいられない話だった。

救いと切なさが同居しているラストシーン

ちひろ・父・母の三人が揃って夜空を眺め、流れ星を見るラストシーン。それぞれが流れ星を見るのだが、奇しくも三人が揃って同時にひとつの流れ星を見ることはかなわなかった。

流れ星というと「希望や願いの象徴」というイメージなのだが…ちひろと両親が一緒にひとつの流れ星を見るのではなく、それぞれが流れ星を目にすることから「ちひろと両親の願っていることや、望む未来や幸せの形は違うのだな」と感じさせ、またちひろも行く行くは両親から離れていくであろうことも想像させる。

ちひろの気持ちも両親の気持ちも想像できるのだけど、それがひとつに交差しないことを予期させるこのシーンに、一番感じたのは切なさだった。

その一方で、流れ星を見ることができたちひろの輝くような喜びように、彼女の願う力、宗教云々関係なく幸せになるために生きていける力を感じて、そこに救われたような気持ちも湧いた。

これからも、少なくとも数年の間は、現実と家族への気持ちの狭間でユラユラと迷いながらちひろは生きていくのだろうな…と思っていたところで、最後に見せられた「救い」と「切なさ」。置き所のない気持ちになりつつ、スタッフロールを眺め、そして帰途についたのだった。

「星の子」というタイトルが秀逸

映画だけではなく原作小説にも該当することだけど、この「星の子」というタイトルからは、少なくともふたつの意味を読み取れる。

ひとつは『天からもたらされた、愛と幸せの「星の子」』

ちひろは両親に愛されて生まれてきたし、その愛情をたっぷりと注がれて育っている。
宗教に反対する姉や伯父一家にも愛されているし、偏見を持たずにナチュラルに付き合ってくれる親友もいる。

そして、ちひろはとても素直だ。

総じて「天の恩寵」感があるんだよね。

もうひとつは『宗教団体「ひかりの星」の子』

ちょっと一歩引いて、物心ついたときから宗教がそこにあった子の、実際の等身大の姿を描いてる、そんなフシもこの物語にはあるような気がする。

物語を通して宗教批判がしたいわけじゃないだろうし、宗教は物語の素材であり背景なのだろうけど、そういったちょっとドライな視点も感じる。
(実際にこの作品は、作中のエピソードの8割方、宗教が関連している)

観始めて割とすぐにこのことに気付いて、その秀逸さに唸らされた。


以上が、映画のメインストーリーに関する感想。

ここから先は、映画の主題とはあまり関係ない感想である。


酷かった「イケメン数学教師」について

ちひろが一目惚れしたイケメン数学教師・南。
快活な印象を与える反面、そこはかとなく自己中心的でデリカシーの無さを感じる言動がいちいち鼻につくキャラクターである。

物語の佳境において、生徒たちが騒いで静かにせず自分の話を聞かないことに腹を立てた教師・南。あろうことかその場で騒いでいたわけではなかったちひろに矛先を向け「授業もちゃんと聞かないで俺の似顔絵を描いてるのが、前から気に入らなかったんだ!」とぶち上げる。
その勢いのままに、クラスメイトの前でちひろの家の宗教も全否定し、ちひろに大きな精神的ダメージを負わせたのだった。

話を動かすのに必要なキャラクターではあるのだけど、それにしても何とも胸糞悪い野郎である。

多感な時期を過ごす生徒へのあまりの配慮の無さ、宗教というデリケートな事柄に土足で踏み込んでいく様は普通に問題になるんじゃないかと思うのだが、残念なことにあのような「自己中心的に正論をぶち上げ、他人の気持ちを想像する力が絶望的なまでに欠けている人間」というのは実際に一定数いるんだよなぁ…

私も中高生の頃、ちひろほどハードなシチュエーションではないけれど、教師に自分の気持ちを土足で踏みにじられた体験を何度かしてきている。
好きだった先生に皆の前で自分と家の宗教を否定され恥をかかされたちひろの姿を見て、過去の自分ならどうしただろうか…と重ね合わせた。

当時の私であれば、あの状況であのような仕打ちを受けたなら、激しい怒りと悲しみでいっぱいになり自分を制御できず、衝動のままに机を蹴り飛ばして、これでもかと怒りを込めて激しい音を立てて扉を閉めて、教室を飛び出していっただろう。

時を重ねて忘れかけていた気持ちを思い出し、胸が痛み、やるせない気持ちになったのだった。

奇跡は滅多に起きないから「奇跡」なのだ

映画の主題や感想とは無関係な「私の宗教観」についての話になるが、今作を観て改めて強く思ったので、最後に書き記しておきたい。

奇跡を願うが故に人は何かを信じて縋りつく。その度合いが深まれば深まるほど、足元の現実を見失っていく。あるいは現実など心のどこかでどうでも良くなってしまう。

作中では奇跡が起き、それ故にちひろの両親は宗教に傾倒していくわけだけど…

それでも、
奇跡は滅多に起きないから奇跡なのだ。

そして、ひとたび起きた奇跡に拘泥すると、誤謬の泥沼に嵌まって抜けられなくなる。

奇跡の存在を否定しているわけではない。

ひとつの奇跡に遭遇したらそれを当て込んで、信じるに値しないことも含めた全てを信じ込み、大多数の苦い現実の結果を無視するようになる。
その結果、ますます現実との乖離が進み、しかも当人はそれを問題とも思わなくなっていく。

それを私は危険だと思うし、実に嘆かわしくも思っている。

ごく稀に奇跡はあるだろうけど、それを信じたり願ったりするあまり、別の問題が生じることは、認識しておいて損はない…と思う次第である。



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