間違うための訓練(2日目)

きのういきなり思い立ってこの「何か毎日書いて公開する」を始めてみたわけだが、とりあえず1日は24時間もあるのに自分はほとんどの時間「考え」ずに「思って」るだけだということがわかってきた。

思うというのは感情の動きで、あの人のこの言い方がむかつくとか、外に出たとき不意に吹いた風の温度が気持ちよかったとか、昼飯に出た唐揚げの衣の揚がり具合が舌に快感をもたらすとか、そういったいろんな評価軸のなかを揺れ動く感情の立体的な曲線が1日のうちに軌跡として残る。
生きている限り、多かれ少なかれ、心の状態は揺れ動いている。人間の体が完全に静止している瞬間が存在しないように。
でもその軌跡はアスファルトに垂らした水滴みたいに、ふとそのことを忘れた瞬間に消える。

考えるとはどういうことだろう。その軌跡の写真を撮っておくようなことだろうか。その軌跡がなんの形なのか想像することだろうか。

いま、飲み会の帰りの電車で、ぼうっと焦点の定まらない脳みそをぎゅっと掴んで雑巾のように思考の水滴を搾り出しながらこの文章を書いている。
文字を書くということは、かつての感情の軌跡をなんとなく記憶して、そういえばこんな形だったかなと後から再現してみる試みに近い。
ただ、その「再現」は、絶対にかつての感情の軌跡の完璧な再現にはなってくれない。絶対に、「こうであることにしておきたい」という新たな感情によって、どこか別の軌跡を描く。でもそれの正誤を判定できる者はどこにもいない。書いている本人だけは、「ちょっと違うんだけどな」という不完全さをわかっていつつも、仕方なく書く。

それはある種の挫折とか、場合によっては絶望とかになることもある。もしもその「ちょっと違うんだけどな」感を失敗であると捉えるならば。

ここで試みたいのは、その「ちょっと違うんだけどな」感を狙うことだと思う。
「思った」だけの、そのままだと消えてしまうことを、間違っていようがいまいが気にせずに好き勝手に再現すること。
正誤を離れた言葉を書くこと。
間違うための訓練。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?